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  A.G.フランクのヨーロッパ中心主義克服論に関連して



 
                            A.G.フランクのヨーロッパ中心主義克服

                                     @ ヨーロッパ中心主義 

 かの有名なる「従属理論」で「一世を風靡」した世界的大学者フランクは、近代社会科学の「泰斗」ともいうべきマルクスとウエーバーについて、マルクス、ウェーバーは、「ヨーロッパにおいてそしてヨーロッパから発達したと主張される『資本主義的生産様式の本質的要素は、世界のその他の地域には欠けており、それはヨーロッパに助けられ、ヨーロッパによって広められることによってしか、その他の地域には具えられないものであり、また事実ヨーロッパによってそうされた』と、誤って主張」したと指摘する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』67頁)。

 ウェ―バー社会科学方法論のの核心ともいうべき理念型について、フランクは、「『理念型』は全て二項的であり、他の区別の仕方でも共通して、まず本質主義的で、現実的というよりは全く想像的な社会文化的特徴と差異を呈示し、次いでその差異が『我々』と『彼ら』とを区別する」と批判する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』74頁)。そして、彼は、この理念型は、「ある種の本来的自己発展」を、「たいてい」ヨーロッパの「おかげ」に帰して、「別の特定の人々の貢献を認めない」ものとも指摘する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』74頁)。

 こうしたヨーロッパ中心主義は、「第二次大戦後、アメリカが経済的、文化的に支配的になって、パーソンズがウェーバー主義を社会学と政治学の神様にしてしまったので、・・いっそうひどくなった」のである。パーソンズの「『近代化理論』および、そのもととなった彼の誤ったタイトルのついた著作である『社会行動の構造』と『社会システム』」、及びW.W.ロストウの『経済成長の諸段階』は、「すべて同じヨーロッパ中心主義の生地から、同じ理論的な型紙にあわせて裁ちとられている」のである。フランクは、ロストウの『諸段階』などは、「マルクスのいう封建制から資本主義へという段階ごとの発展の『ブルジョワ』版とほとんどかわりがない。マルクスと同様にロストウは、アメリカはイギリスのあとをうけて、その他の世界に未来の姿を見せてやっているのだと主張した」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』76頁)とした。フランクは、「右」(ウェ―バー、、パーソンズ、ロストウら)も左(マルクス)もヨーロッパ中心主義では「同じ穴の狢」だと批判したのである。これは、また筆者の持論でもある。
  

                                      A ヨーロッパ中心主義克服 

 先駆 1980年頃から、こうしたヨーロッパ中心主義は間違っているとして、ヨーロッパの良心的な学者によってその批判と克服が試みられ出した。

 ヨーロッパ中心主義への批判は、1978年エドワード・サイード『オリエンタリズム』、1987年マーティン・バーナル『黒いアテネ』、1989年サミール・アミン『ヨーロッパ中心主義』(Eurocentrism)などでなされた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』36頁)。彼らは、「ヨーロッパ中心主義の王様はいまや裸である」と指摘した。

 1993年、ブロート(James M. Blaut)は『植民者の世界モデルー地理的拡散とヨーロッパ中心的歴史』(The Colonizer's Model of the World: Geographical Diffusionism and Eurocentric History1993)で、「生物学(人種的優越性および人口の自制)、環境(不潔な熱帯のアフリカ、不毛で専制的なアジア、温和なヨーロッパ)、例外的な合理性と自由(「東洋的専制」に対するもの・・)、ヨーロッパが歴史的に技術的に優位にあるという主張(それ以前の中国、インド、およびイスラムの先進[技術]を借り、それに依存していたにもかかわらず)や、社会(国家の発展、教会および『プロテスタントの倫理』の重要性、階級形成におけるブルジョワジーの役割、核家族など)といった無数の形態の『ヨーロッパの奇跡』という神話を、微視的に検証し、暴露し、破壊」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』77頁)したのである。

 そして、ブロートは、8人の「ヨーロッパ中心的な歴史家」(マックス・ウェーバー、ホワイト、ジョーンズ、ロバート・ブレナー、マン、ホール、ベクラー)を批判した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』78頁)。さらに、ブロートは、「1492年以前のヨーロッパ、アジア、およびアフリカにおける封建制とプロト資本主義とを比較し、中世の後期と近世において、ヨーロッパは、アジアとアフリカに対して、どの側面においても何の優位ももっていなかった」と指摘した(78頁)。

 1995年、アルバート・バーゲセン(Albert James Bergesen)は、"Let's Be Frank about World History"(世界史について率直になろう)において、「世界経済/システムはヨーロッパに始まったのではない」とし、「ヨーロッパ中心主義的な社会理論」(マルクス、ウェーバー、ヴェルナー・ゾンバルト、カール・ポランニー、ブローデル、ウォーラーステイン)を「転覆」しようとした(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』36頁、羽田 正「新しい世界史とヨーロッパ史」[Journal of History for the Public,2010.7.Department of Occidental History, Osaka University.]も参照)。

 人類学者ジャック(Jack Goody)は、「ウェーバー主義者らのいうところの『西洋合理主義の特異で固有の成果』に対して、それを論駁」し、「西アジア、南アジア、東アジアにも」「西洋合理主義」の「類同物」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』78頁)があったと指摘した。

 フランクの覚醒・自己批判 フランクは、「我々、マルクス、ウェーバー、ポランニー、そしてブローデル、ウォーラーステインも依然として、さらに私も、全員が、ヨーロッパの街灯の下でものを見てきたからであ」り、「我々は、ヨーロッパこそが我々の理論を構築するための史的証拠を探してくるべき場所であると考えてしまっていた」と自己批判する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』91頁)。

 フランクは、ウォーラーステイン『近代世界システム』(1974年)やフランク『従属的蓄積』(1978年)は、「そのようなヨーロッパの拡張と『資本主義』の発展とがヨーロッパと世界の残りの部分の両方にとってもっている重要性を体系化しようとした」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』90頁)ものとした。

 ウォーラーステインが「システムの中心ー周辺構造により焦点を当てた」ものとすれば、フランクは、「システムにおいて構造的に連関した周期的な動態」に焦点をあてたのであった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』91頁)。そして、フランクは、ウォーラーステインは、「近代『世界』システムおよび『世界』経済の歴史と理論」の「非常に限定的」立場のために「グローバル経済と現実の世界システム」の把握を拒んだと批判する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』114頁)

 しかし、フランクは、「二人とも、自分たちのモデル化と理論的分析を近代世界経済/世界システムの構造と過程に限定」し、「このシステムはヨーロッパに中心を置いており、そこから拡大して、世界の残りの部分を次々と、そのヨーロッパに基礎を置く『世界』経済へと組み込んでいった」と自己批判した。フランクは、「それは、世界経済全体の単なる部分、しかも主要な部分でさえないところに依然として限定された、ヨーロッパ中心的なものである限りにおいて、世界経済/世界システム全体を適切に射程に収めることができない」と自己批判するのである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』91頁)。

 さらに、フランクは、「我々、マルクス、ウェーバー、ポランニー、そしてブローデル、ウォーラーステインも依然として、さらに私も、全員が、ヨーロッパの街灯の下でものを見てきたからであ」り、「我々は、ヨーロッパこそが我々の理論を構築するための史的証拠を探してくるべき場所であると考えてしまっていた」と自己批判する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』91頁)。

 フランクの批判徹底 そこで、フランクは、」「形成途上の新しい世界(無)秩序に対して、我々には、オルタナティヴなPerpective of the World(世界の見方)が喫緊に必要だ」とする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』38頁)。「ヨーロッパ中心的な社会理論は、単一の世界システムという(経済的/システム的)現実と折り合うことは内在的にあり得ない」のであり、実際に「そのような単一の世界システムこそが、非常に異なった、しかし分離したものではない、『東』と『西』、『南』と『北』の両方の『現実』を形成している」とする。しかし、マルクス、ウェーバー以下ヨーロッパ中心的な社会理論は、今まで「システミックでグローバルな全体についてホーリズム的に述べようとすることさえしたことがない」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』88−9頁)とする。

 フランクは、「資本主義の起源はヨーロッパにあると称するテーゼ」を批判して(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』382頁)、アジアにも資本主義の起源はあったと主張する。つまり、「1800年以降のヨーロッパの『テイク・オフ』は、ヨーロッパに例外的に存在したいかなる科学的、技術的、制度的『準備』に基礎を置くものではなかった」と主張した。「ヨーロッパにおける発展が、『レネサンス』において得られたと称されている『有利な滑り出し』に基礎をおいていたなどということは、さらに間違いであるし、ギリシアやユダヤ主義から優れた合理性や科学を『継承』していたなどという思い込み的なまやかしに至っては、言うまでもない」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』383頁)とした。

 こうして「ヨーロッパ中心主義のイデオロギー」は、「植民地主義と帝国主義とを『正当化』し支持するために利用されてきた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』531頁)とも鋭く指摘した。

 以後の批判 フランク以後も、エリック・ミランなどがヨーロッパ中心主義が批判した。例えば、2007年、エリック・ミランは、中世西ヨーロッパにおける資本主義の起源に関して、正統派マルクス主義、ブレナー主義(ネオ・マルクス主義)、近代化論、世界システム分析という「四つの理論的パースぺクティヴがある」とし、最初の正統派マルクス主義は18世紀産業革命を起点とするが、@固定的な段階論、A下部構造の偏重、Bヨーロッパ中心主義、C「プロレタリア対資本家」という「杓子定規」的把握、D市場扱いが副次的と批判する(山下範久訳『資本主義の起源と『西洋の勃興』』藤原書店、2011年、16−8頁[Eric Mielants,The Origin of Capitalism and the "Rise of the West",Temple University Press,2007])。彼は、ほかの箇所でも、マルクス主義の諸理論などや、「西欧の階級闘争が『近代』世界への道を開いたという主張」などは、「ヨーロッパ中心主義的」であると批判している(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』242頁)。

 また、ミランは、「ヨーロッパ中心主義者たちは、数世紀におよぶ西洋の植民地支配の長期的な遺産のインパクトを否定」し、近代化論においても「自由放任、競争、機能主義、歴史の固有性の抹消に染まった学界の正当派が主流を占めた」(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』252頁)とする。彼も、ヨーロッパ中心主義には批判的である。

 そして、世界システム分析に関しては、@「ヨーロッパにおける資本主義的な世界=経済の出現を、征服と植民地化を通じた諸地域の包摂と表裏をなすものとして説明しようとする」、A「近代の概念と産業革命に与えられてきた重要性の虚妄をはごうとする理論」、B封建制から資本制への移行の問題を「有効に処理しえてはいない」が、近代化論、正統派マルクス主義とは異なって「中世を議論の構図に戻」していること、C生産過程の搾取のみならず、市場による搾取も考慮していることと評価する。、しかし、ミランは、この世界システム分析は「紀元1500年より前の前資本主義的状況には、全面的には適用することはできない」(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』』32頁)と批判する。

 ただし、ミランは、「12世紀のヨーロッパに起こった質的変容、および主として地域間交易のネットワークの内部における政治的な都市国家間システムの形成」が、1200−1500の期間、ヨーロッパに「『西洋の勃興』をもたらす長期的意味をもった可能性」をもたらしたとしており(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』243頁)、この点がフランクとは異なっている。

 フランクの経済史批判 なお、A.G.フランクは、経済史家こそ「最悪の罪人」であり、「自称『経済史家』の圧倒的多数は、完全に世界の大部分の歴史を無視しており、残りの少数も結局、それを歪曲してしまっている。大多数の経済史家は、世界についてのパースペクティブをーヨーロッパ的なものでさえーまったく持ち合わせていないように見える。そして代わりに、彼らの『経済史』は、ほとんど全く西洋に限定されたものになっているのである」(アンドレ・グンダー・フランク、山下範久訳『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』藤原書店、2000年、82頁)と鋭く指摘する。

 フランクは、また、マルクス主義経済史学は、「西洋の勃興および資本主義の発展の源泉をヨーロッパの内部に求め」るなど、「・・さらにひどく、ヨーロッパ中心的である」(同上書85頁)とも述べるのである。これらの指摘はかなり辛辣な批判であるが、正鵠を得ているだけに、無視はできまい。

 確かに、戦前はヨーロッパに学ぶこと自体が「学問」であるという風潮があり、特に科学・哲学・経済などでそういう風潮が濃厚であった。戦後筆者が「社会科学」を学び始めたころでも、社会科学はマックス・ウェーバーとカール・マルクスに代表されており、まさにヨーロッパ人の始めた「学問」が社会科学界を席巻していた。ヨーロッパ「学問」を受け入れること自体が「学問」とされていた当時、この両極の「学問」が盲目的に受け入れられていたのである。学問方法論を持たない当時の日本の「浅薄学者」どもにはこれを受け入れるのがせいぜいであって、その根源的な批判的克服の意欲も能力もなかったのである。

 もとより、この大学者フランクにも、@10世紀以降を研究領域のメインに設定しているために、総合的だが、根源的ではないこと(その結果、アジア中心が文明登場当時からあったことが見落とされている)、Aしかも交易・金融などのネットワークを偏重しすぎるなどの問題点がないわけではない。しかし、やはり彼の鋭い指摘は正鵠を得ていて、的確であり、傾聴に値するのである。だとすれば、「経済史」を「経済学」とか「時期・地域細切れ的な特殊日本的な歴史学」など、各種「学問」と置き換えても、妥当するかもしれないであろう。この点、エリック・ミランは、「特定の国民国家に奉仕する一握りのエリートの政治的・経済的利害にかなう時にのみ、保護主義の教義が放棄され、自由放任政策が奉じられ」、「アカデミズムにおける大半の経済学の研究はこの好例」なのであり、歴史学もまた、「特定の時代の副産物」であり、「十九世紀のブルジョア国民国家を祭り上げるためにつくられ」たと的確に指摘している(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』253頁)。


 それにとどまらない。もし我々がこうしたことに注意を払わずに、日本の低水準・「非学問的」・因習的大学などで組織温存とか予算増加などの非学問的動機で「研究」していることを厳しく学問的(総合的・根源的)検証を経ることなく、そのまま「垂れ流す」ことを受け入れているとすれば、その危険性は測りしれないかもしれないからであろう。我々は、各種「学問」には、こういう危険性がつきまとっていることに絶えず留意しなければないであろう。学問的であるか否かの判断基準のポイントは、それが総合的・根源的であるかどうかということだ。この学問判断基準は筆者の当初からの持論であり、後にその根底には普遍的な宇宙科学哲学である仏教哲学と共通していることなどに気付いたのである。


                                   B ヨーロッパの現実ー世界の辺境

 蒙古と同じ辺境地域 ヨーロッパ人にとって、かつて自分達がモンゴル人と同じレヴェルだなどとはとても信じがたいことであろう。しかし、13世紀に勃興したモンゴルとヨーロッパには「構造的相同性」があり、「両者がともに、(半)周縁的(マージナル)ないしは、周辺的な地域の民族であり、『中核』(コア)地域とその経済に引き寄せられて、そこへ侵入していった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』431頁)のである。

 当時の「中核」地域は、第一に東アジア、第二に西アジア(インドというべきであろう)であり、東アジアの中国は、「二つの周辺的な『辺境国家』(モンゴルとヨーロッパ)の両方を最もひきつけ、第一のターゲットになり、それが、世界システム規模の革新の源泉になるような結果となった」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』431頁)。中国(及びインド)は、その豊かさの故に辺境のヨーロッパとモンゴルから狙われていたということである。

 フランクは、モンゴルとヨーロッパのアジア侵略の違いに関して、「モンゴルは、最初に中国、次いで西アジアを襲っただけではなく、それから中国に元朝を建て、西アジアにも、他のモンゴル国家を建国した」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』431頁)と指摘する。モンゴルのアジア侵略が成功した理由は、「東アジアおよび西アジアの政治的・経済的条件の弱体化」にあるが、モンゴル征服統治は「不利な(衰退したー筆写)、経済的条件」のゆえに一時的で「持続不可能」なものであった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』432頁)。

 ヨーロッパの侵略性 しかし、ヨーロッパは、モンゴルとは異なって、まずアメリカを侵略し、次いで中国「侵略」を長期にわたって目論んでゆくのである。

 ブローデルは、ヨーロッパの貧しさについて、18世紀には、まだヨーロッパには、「面積上の不釣合いを埋め合わせる」だけの産業力を獲得していなかった。そこで、ヨーロッパは、外国を侵略し、「その実質と力との相当部分を全世界から引き出し」、「進歩の途上で数々の任務に直面するなかで、本来のそれ自身よりも高い地位に押し上げられた」とする(フェルナン・ブローデル、村上光彦訳訳『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU 世界時間2、みすず書房、1996年、3頁)。内在的・自給的な力ではなく、外在的な力で本来以上の地位に押し上げられ、これによって、産業革命が「早くも18世紀末に実現」することになったのである。

 まず、アメリカ侵略について、ブローデルは、アメリカ原住民数千万人を無視して、アメリカ大陸の障害は「野性的な自然や、人間の尺度を超えてありあまる豊富な空間に由来する」としたり、16世紀中葉にスペイン人がチリ南部にきたとき「ほとんど完全な無人境」であったとしたり、「メーン州からジョージア州までの2000km」のイギリス植民地は「人口希薄」だったとする。そして、「無人だったアメリカが存在してゆくには、人間をそこにがっしりと繋ぎとめ、それぞれの任務に封じ込めるほかな」く、「農奴制や奴隷制という古代の鉄鎖がおのずから生き返った」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、7頁)とする。ブローデルは、「アメリカ大陸の植民地はどこもかしこも『世界のどん詰まり』や『地の果て』だらけであっ」たが、「自由を付与してくれる」「約束の地」(9頁)であったと、原住民生活を一顧だにしていない。

 「17世紀末期に、南北アメリカ大陸全体が強烈な生命の息吹に揺り動かされたとき、経済空間の最初の組織化が仕上が」り、「さまざまな地方市場が、広大なスペイン領アメリカ大陸内で個別の特徴を帯びていった」(10頁)。ブローデルは、「人間は空間を一部分しか?みとっていなかった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、10頁)と、白人植民者の立場で見ている。ブローデルは、「この広大すぎる土地にあっては、人口希薄という問題がいつまでもついてまわ」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、12頁)り、奴隷制・農奴制などが導入された。隷従インディオ、隷属身分の白人、黒人など、「新世界ではさまざまの集団が、くびすを接してつぎつぎと隷従身分に置かれていった」。「隷従身分のインデイオが生きながらえることができた」のは、旧アステカ帝国、インカ帝国などの地帯に限られ、「ほかの場所では、原住民は苦難が始まったとたんに自己崩壊」した(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、13頁)。

 次に、アジア侵略について、フランクは、 「ヨーロッパ人を当初ひきつけ、そして、持続的にそうでありつづけたのは、やはり『中国』であ」り、コロンブス、マジェランの後継者は、「北大西洋とカナダの北部を抜ける有名な『北西航路』という妄想を追い求め」、さらには「ヨーロッパから北極海を抜けて中国へ行くという北東航路さえ追求された」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』431頁)のである。

 その間、「ヨーロッパ人は結局、南アジアおよび西アジアの多くの地域で植民的な地位を獲得しつつ、シナ海に面したいくつかの条約港における半植民地的な『門戸開放』のドアから、詮索がましく覗き見をするのがせいぜいであ」り、「それ以前のモンゴルと同様、ヨーロッパ人もまた、そこから派生的に、日本および東南アジアに、侵入しようとし」、モンゴルは失敗したが、「ヨーロッパの海軍による進出は、相対的に穏やかなものであったが、モンゴルの場合よりは多少成功した」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』432頁)のであった。

 要するに、「ヨーロッパには、アジアに与えたり、伝搬させたり、実行したりするような、いかなる例外的な、民族的、合理的、組織的長所も、あるいは資本主義の精神も、ましてやアジアに対する優越性なども、全くなかった」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』473頁)。ヨーロッパは、過剰資本があろうがなかろうが、初めから侵略的とならざるをえなかったという事である。ヨーロッパ中心主義者に言わせれば、1400年には「広大で壮麗」な極東は「自衛のための組織立ては不十分」だから、「侵略者を呼び寄せてしまった」のであり、「ヨーロッパ人の闖入の責任は、ただヨーロッパ人だけに負わせるわけにはいかない」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、184頁)ということになる。泥棒に入られるのは戸締りをしっかりしておかないのが悪いのだとは、泥棒による泥棒正当化以外の何物でもないのである。

 ヨーロッパの従属性 西ヨーロッパ、南ヨーロッパは「両アメリカとアフリカを除くすべての地域に対して、慢性的で巨額の構造的な貿易赤字を抱えて」いたため、両アメリカから「たいした対価を払わずに」「銀および金地金を輸入」(161頁)して補填する必要があった。そして、「金と銀がヨーロッパの総輸出額の三分の二」を占めていたことが、「ヨーロッパの構造的な貿易赤字の存在を示す」「ひとつの指標」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』161−2頁)である。
 
 オランダ東インド会社は、1615年輸出額の6%が「積荷」であり、94%は地金(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』162頁[Das Gupta,Ashin and M.N.Pearson,eds.1987.India and the Indian Ocean 1500-1800.Calcutta:Oxford University Press.p.186])。1660年から1720年、オランダ東インド会社の輸出総額のうち、87%を貴金属が占めていた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』162頁[Prakash,Om.1994.Precious Metals and Commerce.Aldershot,U.K.:Yariorum.p.20])。

 イギリス政府は、「工業家その他、『輸出振興』に関心を持つ階級を代表」して、イギリス東インド会社憲章で「総輸出額の少なくとも10%に、地金ではなく輸出製品を含ませる」ことを定めている。にも拘わらず、イギリス東インド会社は、「このような控えめな額に対してでさえ、慢性的に困難」であり、実際「輸出の大部分も西アジアどまりで、そこからさらに東へは、買い手がつかなかった」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』162頁)。当時の「ヨーロッパからの輸出品の大部分は、金属および金属製品」であり、東インド会社は憲章規定輸出の実行のために、「輸出総額を減らすために、請求明細を水増ししたり、間引いたり」した。さらに、イギリス東インド会社は、「アジア製品の輸入のための財源をアジア域内で調達」しており、「それはアジアーヨーロッパ間交易よりも、ずっと発達していて利益の多いもの」だった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』162頁)。

 以上、ヨーロッパは、アメリカ両大陸に「新しく収入と富の源泉を見つけた」ことによって、「ある程度域内の生産を増大させ」、「ある程度(年平均0.3%)の人口増加」を促し、「15世紀のヨーロッパは、14世紀の破滅的な衰退から立ち直り始めた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』163頁)のであった。自らの力で立ち直ったのではないということである。

 なお、この点、ブローデルは、15世紀初頭、明王朝による蒙古族からの「中国の再興」、「驚くべき規模での中国の海洋発展」などがあり、「この時期に、東南アジア諸島に膨大な超世界=経済の極が定着したらし」く、「バンタム、アチェ、マラッカなどの諸都市、そしてずっと後代にはバタヴィアやマニラが活況を呈し」、東南アジア諸島の町は、「国王とかスルタンとかがこれらの町を統治して秩序を布いていたにしても、それらは自治都市に近い存在」(137頁)だったとする。そして、「エジプトから日本」にいたるまで、登場するのは行商人のみならず、「資本家、交易から金利を得る人、豪商、幾千もの現地実務担当者、代理業者、仲買人、両替商、銀行家」であり、「これらの商人集団のどれ一つとして西ヨーロッパの同業者に引けを取らなかった」し、ヨーロッパのフレンツェ、ジェノヴァ、南ドイツ、イギリス等の商人の連携と同様に、インド国内外のタミル人、ベンガル人、グジャラート人の商人は「緊密な連係組織をつくって」いたとする(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、136−7頁)。だが、アジア商人集団はヨーロッパ商人集団に「引けを取らなかった」というのではなく、逆にヨーロッパ商人集団はアジア商人集団に「引けを取らなかった」というべきであろう。まだアジアが世界の中心だったのである。


                                  二 外国貿易論の「危険性」 

                                  @ ヨーロッパの貿易定理論

 上記フランク問題点(一のA「フランクの経済史批判」中のA)を敷衍しておけば、これは、国内生産・資源が豊かで交易を付随的とみるアジアとは異なって、古来から交易なくしては存立できにくい国内資源貧弱なヨーロッパという相違に基づいているようだ。ヨーロッパは、軍事力を背景とした富略奪的な交易・通商に依存しなくては成り立たないのであり、「大航海時代」とか重金主義・重商主義・自由貿易主義・比較生産費説とか、或は経済学とかは、こうしたヨーロッパ独善的=「ヨーロッパ中心主義」的(Eurocentristic)な風潮・政策が反映して醸成・立案されたものである。この内前者の特徴はブローデルによって明確に把握されているので、これを取り上げてみよう。

 ブローデルのヨーロッパ中心主義 ブローデルは、フランクほどにはヨーロッパ中心主義を脱却しえていない。フランクは、ブローデルの中国観(「中国が劣っていたのは、そのイスラムや西洋ほど発達していなかった経済構造にその原因がある。・・企業家も、利益をあげるのに熱心ではなかった。・・彼らは西洋の資本主義的なメンタリティを、いいかげに共有していたに過ぎない。・・中国の経済は未成熟だった」し、「また十八世紀にいたるまで、[場所によっては]十九世紀にいたるまで、信用システムなど存在していなかった」と評価する)や日本観(「徳川革命によって、日本は世界から孤立してしまい、封建的な慣習と制度にしがみつくことになった」と一方的に評価)の誤りを指摘する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』75頁)。

 確かに、ブローデル『物質文明・経済・資本主義』第三巻『世界時間』では、1500年以来の「世界のパースペクティヴ」について、世界を「ヨーロッパ世界経済」と「その外側にあるいくつかの他の別々の外部『世界経済』」に分け、後者を研究している。しかし、その成果を「第一巻における彼らのモデルと理論とに組み込むことを怠ってしまった」のである。これは、マルクスも『資本論』第三巻でそうした。この結果、「彼らの持つヨーロッパ中心主義のために、いかなる歴史的モデルも社会理論もすべて、普遍的であろうがなかろうが、ヨーロッパの経験にのみ、基礎付けられねばならない」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』90頁)とした。

 ブローデル歴史観の特徴を元もよく現すのが「世界=経済」(economie-monde、ドイツ語Weltwirtshaftからの造語)という用語を掘り下げてみよう。これは、「世界経済」(economie mondiale、「一つの全体としてみた世界の経済」、「単一市場」)とは異なり、「ある単一の世界=経済とは、経済面でも非経済面でも個別化された諸空間が、これを中心として再編成された総和なのである」(フェルナン・ブローデル、村上光彦訳『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT 世界時間1、みすず書房、1996年、11−4頁)とする。訳者村上光彦氏は、この「世界=経済」の具体例としては、古代では、「フェニキア、ヘレニズム世界、古代ローマ、さかんに活動しだした時期のイスラム圏」、15−8世紀にかけては、「ヨーロッパ、モスクワ大公国、オスマン・トルコ帝国、極東」があり、そこには「極をなす中心都市」とその辺の「中継都市」があり、「世界=経済」相互間の境界は、砂漠や大洋など、越えがたい天然の障壁がその役を務めていた」のであるとする(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、345頁)。しかし、結局、ブローデルは、「世界の一断面」「地球の一片」だが、「経済に自律性があ」り、「地中海の交換生活によって活動的になった全体のこと」、つまりヨーロッパを念頭にし、14世紀以降のヨーロッパのアジア・アフリカ・アメリカへの侵略を「肯定」する見方を提出しているのである

 この点に関して、ブローデルは、ヴェネツィア、オランダ、イギリスには、「強力な政府」があり、「それらの政府は、内外に威令を敷き、都市の下層民の規律を正し、必要とあれば租税負担を重くし、信用を、また商業の自由を保証する能力があ」り、さらに、「国外にたいして威令を敷く能力もあったとする。これらの政府は、暴力に訴えることもなんらためらわなかった。まさにこれらの政府になら、時期的に非常に早いが、時代錯誤を恐れることなく植民地主義とか帝国主義とかいう単語を用いてもいい。それどころか、これらの中央政府は程度の差はあれ早くも資本主義に従属していたのであり、そのときすでに資本主義は年端もゆかないのに歯が伸びて、食欲旺盛だったのである。権力は、諸政府と資本主義とで分かちあっていた。国家はこの勝負にあたって、これに足を取られはしなかったものの、世界=経済に固有の動きのなかへと突入していった。相手にも奉仕し、金銭にも奉仕しつつ、国家は自分自身の利得もはかった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、53−5頁)と、はっきりと指摘している。さらに、ブローデルは、17世紀末には、ヨーロッパは、「ヨーロッパ東部の縁辺」やロシア、アフリカ、アメリカ大陸、イスラム圏、「膨大な極東」に影響を及ぼし始め、「アメリカ大陸はヨーロッパから見てほぼ完全にうまくいった成功品」、「黒人アフリカは見かけよりも緒についた成功品」、「ロシアおよびトルコ帝国」は「非常に緩慢であったが否応なく仕上げが進行しつつあった成功品」、「極東は・・実質よりも見かけのほうが華々しくて、成功度は異論の余地があった」とまで指摘する(フェルナン・ブローデル、村上光彦訳訳『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU 世界時間2、みすず書房、1996年、2頁)。

 こうして、貧しいヨーロッパは、富の収奪を求めて、アメリカ・アジアに進出した。ヨーロッパの「君主制諸政府」は「広大な世界に向かいあうと息切れし」、「貴族を味方にしたり、敵に回したりしながら、なんとか統治していかなくてはならなかった」。当時の国家は「不完全」だったので、「貴族がいなかったとしたら、その任務を引き受けてい」なかったであろう。もとより、「上昇途上の有産市民階級が存在してはいたが、国家はその前進を助成しながらも慎重に対処していたので」、有産市民階級の「進みぐあい」は「緩慢」であった(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、55頁)。これらの君主制国家は、「通商の十字路に位置し、より有利な場所を占めた商業国家」に「劣っているのを自覚」し、「中心めがけてよじ登ろう」とした。これが、オランダに立ち向ったイングランドの「固定観念」であった。そして、国家は、「戦争遂行や華美の誇示のために必要な収入」を確保しようとし、商業国家に対抗して「気が向くと征服に乗り出す」のである。アメリカ・アジアが相手にしたヨーロッパとは、まさに危険な戦争集団だったのである。

 
 だが、それでも、ブローデルにはその脱却の方向もまた認められる。それは、彼の重商主義・自由貿易・比較生産費説の考察に確認される。

 重商主義 ブローデルによると、ヨーロッパの歴史家がこの重商主義という用語を造る際、「多種多様の意味」を付けたが、「重商主義とはなによりもまず身の守り方」だったので、「そのなかのひとつが他のもろもろの意味から抜きんでているとすれば、それは他者に対する防衛を内包した意味」となった。君主なり国家なりが「劣勢を確認」して、「これを覆い隠」し「挽回」しようとした。だから、オランダは、強勢で「比肩する国」がなく、「ふだんは自由競争を行なっても痛い目にあわずにすみ、利益を得るばかりだった」ので、「重商主義的になった時機」は「ごくわずか」であった。18世紀、英国が、「偉大さと国力とが、その一国のものにとどまらず、すでに世界の標準時を告げ」るようになると、「警戒を怠らない重商主義から遠ざか」り出した(フェルナン・ブローデル、村上光彦訳訳『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT 世界時間1、みすず書房、1996年、55−6頁[Braudel,Fernand.1979.Civilisation materielle,economie et capitalisme,]X[e]-][[e] siecle.Paris : A. Colin.])。

 自由貿易 自由貿易とは、自由貿易関係を強制する側が、相手に不平等を強制するためのものである。この点についても、ブローデルは、「不平等の交換は世界の不平等を生み出し、またその逆に、世界の不平等は執拗に不平等な交換を生み出しつづけたのであって、この両者は昔ながらの実体なのである」と的確に述べている(フェルナン・ブローデル、村上光彦訳訳『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT 世界時間1、みすず書房、1996年、50頁[Braudel,Fernand.1979.Civilisation materielle,economie et capitalisme,]X[e]-][[e] siecle.Paris : A. Colin.])。

 比較生産費説 この自由貿易を正当化するために提案されたものが、比較生産費説である。これは、デーヴィッド・リカールド『経済学および課税の原理』(Principles of Political Economy and Taxation.1817)提案され、彼は、この比較生産費の原理で「対外交換はすべて相互の均衡に向か」うとし、国際分業は「ものごとの本性にかなったこと」としたのである。

 だが、ブローデルはこの「まやかし」を喝破する。「この分業は、本性にかなった、おのずからなる天職といったものの果実などではな」く、「程度の差はあれ昔からあった状況が、ゆっくりと、歴史のなかで描きだされながら固まってできた遺産なのである」としたのである。ブローデルは、「世界的規模での分業は、対等の当事者どうしが絶えず相談ずくで取り決めてきた、いつでも改定可能な協定というわけではない。相互の立場を決定的に固定してきた従属関係の連鎖として、この分業は徐々に確立されたのであった」と的確に指摘したのである。


 これらは、富を求めて外国と始めた貿易をヨーロッパ側から肯定し押し付けようとするものである。貿易を肯定するためにいかようにも「美化」することは可能であったのであるが、古今東西、貿易というものは、諸国家の強弱を反映して軍事的強国優位の不平等性を反映しがちなものであり、故にこそ弱小国・劣勢国などでは保護貿易規定によって「平等性」を担保することは不可欠だということが改めて注意されよう。

 ヨーロッパがアジアに貿易をおしつけてゆく際に、大いに利用したものの一つが、銀貨及び金貨という世界貨幣であった。次には、このことを見ておこう。

 なお、経済学が、ヨーロッパ中心主義的であったことについては、例えば、栗原籐七郎氏が、「現代の経済学は、西洋の事実を前提として発達したものであ」り、「それが全部、東洋にもあてはまるとはいえない」(栗原籐七郎『東洋の米 西洋の小麦』東洋経済新報社、昭和39年、A頁)と的確に指摘している。


                                        A 貿易を促した世界貨幣の登場

 銀本位制の誕生 当時「東アジア、東南アジアおよび南アジアにおける日用の小額取引は、大半は銅銭で行われ」、17世紀の半ば以降、日本は「世界的な銅の大輸出国とな」った(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』254頁)。

 しかし、「次第に、その一部が銀にとってかわられるようにな」り、「急速に増加する銀の供給と、それに伴う金や銅に対する銀の相対価格の下落が、銀の本位化を招いて、それを可能にし、次第に世界市場経済に定着し」、「特にアメリカ大陸と日本によって生産された世界の銀供給の急速な増加は、その金に対する相対価格を下落させた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』248ー9頁)。

 アメリカと日本の「巨大で安価な銀の生産によって支えられ」、「事実上、世界経済は、銀本位であ」り、「オスマン帝国、明朝中国、およびインドは、大量の銀を用いて、その貨幣システムを維持していた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』254頁)。17世紀、年平均420トン、百年間4万2千トン、うち3万1千トンがヨーロッパにたどり着き、4分1が国庫、4分3が民間に流れた。このうち40%の1万2千トンをアジアに送り、オランダ・イギリス東インド会社が夫々4、5000トンを輸送した。18世紀には、アメリカ銀の生産高は年平均740トン、年間7万4千トンとなった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』259頁)。

 日本は、「1560−1640年の80年間にわたって、世界の主要な銀生産・輸出国」(263頁)であった。日本は、1560−1600年には年50トン、1600ー1640年には年150−190トンの銀を生産・供給した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』259頁[Arwell,William S.1982. "International Bullion Flows and the Chinese Economy circa 1530-1650."Past and Present 95 :Reid,Anthony.1993.Southeast Asia in the Age of Commerce 1450-1680.Vol.2:Expansion and Crisis.New Haven:Yale University Press<平野秀明ら訳『大航海時代の東南アジア』法政大学出版局、1997年>])。

 当時、「貨幣間の鞘どり」は、ヴェネチア人・スペイン人・オランダ人・「その他のヨーロッパ人」のみならず、オスマン人・ペルシア人・インド人・東南アジア人・日本人・中国人にも「大きな商取引」であった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』259頁)。

 以後の銀生産高は、リードによると、1650年代に年50トン、1660年代には年40トンと減少しつつも、銀輸出は、18世紀中葉までは継続した。「日本銀の中国への輸出(総計8000ー9000トンと推定)は、アメリカ大陸から太平洋を渡って中国に達した銀の3−10倍、平均して6−7倍にのぼってい」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』263頁)て、この時期の世界貨幣システムで日本銀が果たした役割を積極的に評価しようとする意見もある(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』264頁)。しかし、所詮貨幣は貨幣であり、経済の潤滑油であり、本体は農業・工業・商業などの経済である。

 1600−1800年、パレット概算によると、大陸アジアは、アメリカ大陸からヨーロッパ経由で「少なくとも3万2000トンの銀」、マニラ経由で3000トン、日本からは1万トンを吸収した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』265頁)。当時の「世界の銀の生産量の半分」くらいが中国に流入したのである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』267頁)。

 銀減少に代わって、「銅の生産とその中国への輸出が増加」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』263頁)した。

 金 1500年以前には、「何世紀間もそうであったように、この金の大半は、アフリカ、しかもその大部分は西アフリカからきてい」て、16世紀50トン、17世紀100トン、18世紀60トンが輸出された(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』269頁)

 東南アジア(雲南、ビルマ、マラヤ、タイ、チャムバ[ヴェトナム]、スマトラ)も金を産し、中国も産金し「銀との交換でそれを輸出」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』269頁)した。

 銀貨の役割  「貧しいヨーロッパ人」は、アジア進出の手段をアメリカ大陸で発掘した金・銀で「買った」のである。その他、ヨーロッパ人は、@「奴隷プランテーション」を経営し、A「アジアで販売できるだけの競争力がなかった」欧州製品をアメリカに売った(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』465−6頁)。

 1600−1750年、人口成長率は、ヨーロッパ(57%)よりアジア(87%)が高く、「ヨーロッパよりもアジアにおいて、安価な労働力の入手可能性が、ずっと高まったということを示唆する」のである。しかし、1750−1800年、「アジアの人口増加率が、相対的にヨーロッパより大きく減少」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』513頁)し、このアジアの人口増加率の減少は「アジアの衰退の表出」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』511−4頁)である。

 1400−1800年の「グローバルな発展の期間」には、貨幣は、「重要な役割を果たし」、世界中をかけめぐり、「農業、工業、そして商業の車輪の回転の動力源となり、また潤滑油ともなる血液を供給し、それを莫大に増加させた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』253頁)。「貴金属の主要な輸出者には、スペイン領アメリカ植民地と日本があ」り、「アフリカと東南アジアは、金を生産し、輸出」した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』254頁)。

 「金属貨幣の入手可能性と希少性の両方から、『かつてないほどの信用の拡大』が刺激」され、特に東インド会社は地金を担保にして「融資を獲得し、為替手形の支払い」をしていた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』270頁)。

 インドにおける「織物生産の発展と、その生産に要する綿花や染料の栽培、流通、加工、そしてもちろん、その生産者や流通業者の食糧の生産と流通は、全て、新しい貨幣の寛大な流入によって刺激され、それによって可能になった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』285頁)。「インドでは、生産の拡大は、ムガール帝国による征服および帝国への編入後のベンガルとビハールにおいて、最も顕著」(281頁)であり、「生産の拡大の大部分は、アジア人の手になる域内市場と輸出市場との組み合わせによる」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』282頁)。

 ムガール帝国の衰退後、貨幣による商品経済化が進展した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』283頁)。

 16世紀中葉、流入した銀が中国経済を「拡大」し、「明朝の経済は、銀を本位として、ますます貨幣経済化が進み、少なくとも1620年代を通じて、急速に拡大」した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』285頁)。「銀と交易が刺激となって、経済を拡大する効果は、中国南部で最も劇的に現れ」、「商人は、その年の収穫の受け取りと引き換えに、資本を農村生産者に前貸しした」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』285頁)。「(嶺南の)農民は、綿花を栽培するよりもむしろ、サトウキビを栽培し、精製加工して、華中・華北からの綿花と交換し」、「綿布の多くは、南洋(南シナ海)にむけて輸出」された。「かくして、綿布需要の増加は、サトウキビによる米の代替を促進」した。既存水田がさとうきび・養蚕に転換して、この地域の米生産量は減少した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』286−7頁)。

 19世紀中国の生産性は「依然として、高いまま」であり、「恐らく日本よりまだ高かった」であろう。このように「中国は依然として経済的に生産的で、政治的に強力であったので、容易には浸透できず、そのため、イギリスは、中国を乗っ取ろうと、インド産のアヘンに訴えて、無理やり『門戸開放』を遂げたのである」。しかし、「19世紀のあらゆる努力にもかかわらず、その乗っ取りは、それほどうまくいったわけではない」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』489頁)。

 次には、こうした中国・インドが世界の中心であったことを確認してみよう。

                                    三 アジア中心主義

                                 @ アジアの現実ー世界の中心

 
ここでは、主として15世紀以降においてアジアが世界の中心であったことを確認するが、それ以前については拙稿「麦・米・とうもろこしの世界史的意義」(一)(二)を参照されたい。

 15−8世紀中国の優越性
 フランクは、「1400年から1800年までの世界経済の構造と動態」を示し、「東アジア、そしてその中で言えば中国こそが、ひとつの全体としての世界経済にとって、中心的とはいわずとも、支配的な地位を占めていた」ことを解明した。1800年まで「世界経済におけるアジア、特に中国の優越性が・・継続し」、1800年以後東洋が衰退しはじめたが、それは一時的であったとする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』3頁)。

 中国明朝(1368年ー1644年)では「重要な技術、生産、商業、一般的な経済の発展」が見られた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』440頁)。ウィリアム・マクニールは、「中国が、当時の世界において、最も重要な『中心』であった」とした(440頁 [McNeil William.1983.The Pursuit of Power:Technology,Armed Force and Society since AD100.Oxford:Blackwell])。ジョージ・モデルスキー、ウィリアム・トムソンは、「紀元930年ごろに始まる、彼らの言う約五十年周期のコンドラチエフのサイクルの最初の四つは中国で起こった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』440頁[Modelski,George,and William Thompson.1996.Leading Sectors and World Powers:The Co-Evolution of Global Economics and Politics.Columbia:University of South Carolina Press])とした。

 フランクは、15世紀以降の世界経済は「圧倒的にアジアに基礎を置」き、ヴェネチア、ジェノヴァの企業は「アジアの豊かさと、まさにそれを求めるヨーロッパの需要との間に立って媒介」していたから、その「成功の基礎」はアジア交易にあったと指摘した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』136頁)。そして、彼は、世界システムは、単一の中心ではなく、せいぜい、おそらく中国を頂点として位階状になった諸中心を持ってい」て、この世界システムは、前述したように、「特に世界規模での貨幣市場を通じた、グローバルな分業、および商業・金融の結びつきを持って」「たった一つ存在」したとする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』541頁)。

 
この点、ブローデルは、「世界通商」は「ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジア」の「相互補完化に努力してき」たとするが、西ヨーロッパがアジアから「ごく早い時期から胡椒・香辛料・絹」を獲得しようと「狂熱や欲求」を示したように、豊かなアジアにはヨーロッパ産物を輸入する必要がなく、「アジアは早くもローマ帝国の時代以来この交換ゲームを受け入れなかった」のであるとしている。そして、輸出超過の中国とインドは、「全世界を流通する貴金属の墓場(集積地)」となり、「16世紀には、アメリカ大陸が発見されて新世界の鉱山が躍進したおかげで、この手段は未曽有の規模を帯びるにいたった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、143頁)とする。こうして運び込まれた貴金属は、「インドの、またおそらくは中国の経済の、もっとも活発な部分での活動にとって必要不可欠」であった。故に、ヨーロッパは、「銀を通じて極東諸経済の調節器を握る結果」となって、その点で「極東諸経済にたいして強者の地位」にたったかである。だが、ヨーロッパは、アメリカ大陸からの銀不足に直面して「銀によって日常的な難点や不安定」に直面した(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、143−4頁)。そこで、ヨーロッパ人は、軍艦という「別の優越性」を示しはじめたのである。


 19世紀中国の優越性 さらに、フランクは、「今日の東アジアにおいて経済的にもっともダイナミックな地域が、1800年以前と全く同じであ」り、「一方に、中国東北部、シベリヤ/極東ロシア、韓国、日本の間での四角貿易が展開する環日本海地域」、「他方に、香港・広州回廊を中心とする華南、厦門を中心とした台湾海峡と東南アジア全域を臨む福建、その中間に上海を中心とする揚子江流域の諸都市、そして日本の間の貿易が展開する南シナ海地域」であるとする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』10頁)。そして、日本は、「この南北両地域を再び牽引する役割をすでに果たし」、「これらの諸地域は、依然として、あるいは再び、世界貿易およびグローバル経済の一部として、その重要性を高めている」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』10頁)と評価した。

 
「世界経済において、最も『中心的』な二大地域は、インドと中国であ」り、その中心性は、第一に、「手工業における、その卓越した、絶対的および相対的生産性に由来」した。中国は、「インドをも凌ぐ中心」で「最大の黒字国」であり、「工業、農業、運輸(水運)、商業における、さらに大きな絶対的・相対的生産性に基礎を置いていた」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』235頁)。スミスは、「農業および製造業の改良は、同様に、東インドのベンガル諸州や、中国の東部諸省のいくつかでも、たいへん大昔から行われていたようであ」り、「どの記録を見ても、これら三つの国(中国、エジプト、インド)は、世界にまたとない富裕な国であるが、それでさえ、その農業と製造業における優越性によって主として知られてい」て、「中国は、ヨーロッパのどこと比べても、ずっと富裕な国である」と指摘した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』467−8頁)。さらに、フランクは、アダム・スミスは、「貧しいヨーロッパ人が、いかにして、彼らが手にした新しい貨幣を使い、富を増大させて、アジアという列車に乗るための切符を買うことができたのか」も理解していたと指摘する。

 ヨーロッパの劣勢 17世紀ドイツ哲学者ライプニッツはルイ王宛書簡で、「すべて美しく、すばらしいものは、東インドからやって参ります。中国の商業に匹敵するほどのものは、世界全体でもどこにもないと、学識ある人は申しております」と述べている(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』62頁)。経済史家ポール・ベアロックは、「16世紀の初頭前後には、アジアの主要文明はヨーロッパのそれをしのぐ技術的、経済的発展の水準に達していた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』63頁)とする。1776年アダム・スミス『国富論』では、「中国は、ヨーロッパのどの部分よりも、ずっと豊かな国である」と述べた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』65頁)。

 アジアは、「人口と生産」のみならず、「生産性、競争力、交易」といった資本形成面でも、「世界経済および世界システムにおいて圧倒的」であった。「アジアには技術があり、それに見合う経済および金融上の諸制度を発達させ」、「中国、日本、およびインドは、全体として第一の地位を占めており、東南アジアおよび西アジアが、そのすぐ後ろに控えて」おり、「赤字漬けであったであったヨーロッパが、世界経済において、あらゆる点で、アジアほどの重要性を持たなかった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』295頁)のである。


                                   Aアジアの現実ー大企業と高生産性

 大企業 
近世アジアでは、西洋企業より「はるかに大規模な企業」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』294頁[『タイムズ図説世界史』])が登場した。例えば、16世紀後半には「日本は世界でも指折りの銀と銅の輸出国であり、5万5千人の鉱夫を抱え、銀についてペルーを、銅についてスウェーデンを凌駕する産出量を誇っ」ていた。中国の絹と陶磁器の生産は「すさまじ」く、南京だけでも毎年百万個生産した。

 インドでは、1680年代、ベンガルのカシムバザールだけで毎年200万ポンド以上の生糸を生産し、西方のグジャラートでは輸出用綿織物が約300万着を産出した。これに対して、ヨーロッパの「唯一の生糸生産地」メッシナの生糸輸出量は年間25万ポンドに過ぎず、「最大の織物企業」ニュー・ドレイパリー(ライデン)の生産量は年間10万着未満であった。

 高生産性
 フランクは、「ブローデルは、ポール・ベアロックによる1750年の世界および各地域のGNPの試算を引用」し、世界のGNP総計は1550億ドル(1960年のアメリカドル換算で)で、うち77%1200億ドルがアジア、350億ドルが「西洋」全体(日本・ロシアを含めている)に属していることを指摘する。1750年および1800年には、アジアは、「ヨーロッパおよび両アメリカにおいて、どれほどかき集められたよりも、ずっと大きく、生産性や競争力も、上であった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』302−3頁)のである。

 アジア生産性はヨーロッパ生産性より高かった。「アジアにいた世界人口の3分の2の人々が、世界の総生産の5分の4を生産し」たが、「世界人口の4分の1を占めるヨーロッパは、アフリカやアメリカも加わっている、世界総生産の5分の1の一部を生産していたに過ぎない」ので、「平均すると、1750年において、アジア人は、ヨーロッパ人よりも、有害に生産的であったに違いない」し、中国・インドは「最も生産性の高い」地域で、「1600−1800年の日本では、人口は、45%しか伸びていないが、農業生産は倍増していおり、したがって、実質的に生産性もあがっていたにちがいない」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』304−5頁[Jones,E.L.1988.Growth Recurring.Economic Change in World History.Oxford:Clarendon Press])。

 アジアが、「特に工業生産と世界交易において、絶対的および相対的に生産性が高く、競争力も強かったという直接の証拠」としては、アジア三大手工業(「綿や絹の織物」、「宝飾を含む金属加工」、「陶磁器およびガラス製品」)とその周辺の「副次的な手工業」(製紙、火薬、花火、レンガ、楽器、家具、化粧品、香水など)が存在し、高度な生産分業が展開していた。例えば、「チンツやモスリンの織物」では、「綿花を栽培する農家、刈り取り人夫、綿くり、梳毛工、紡績工、織工、漂布工、捺染工、染色工、つや出し工、および修理工」に分化していた。また、金属加工業では、「農業器具、金属の留め具、建物の扉や錠、調理器具、重装な武具、宗教上の工芸品、鋳貨、および宝飾品」などがあった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』307−9頁[Chaudhuri,K.-N.1990.Asia before Europe.Economy and Civilization of the Indian Ocean from the Rise of Islam to 1750.Cambridge:Cambridge University Press,pp.302-323])。

 
さらに、中国・インド・東南アジア(日本は後述)について個別的にみて、その上でアジアが世界中心であったことを具体的に再確認しておこう。

                                       B 中国
 
 
 11、12世紀には、「宋代の中国が、当時の世界で最も経済的に進んだ地域」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』207頁)となった。17世紀半ばの明清交替期には、「ほんの短い間中断しただけで、生産、消費、および人口について、莫大な増加を経験」した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』207頁)。

                                     a 中国の経済発展

 生産と人口の増加 1411年に大運河(「北京および国境の前哨基地にまで米を供給」)が開削され、「沿岸海上ルート、およびそれにともなう商船や海軍への依存を弱め」、1434年に鄭和の海軍拡張が停止され、「内国での富を追求」する傾向を強めた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』207ー8頁)。しかし、「南東部の海上交易」は途絶えることなく、「非合法交易」は倭寇交易と混淆して、朝貢交易を「はるかに凌」いだ(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』208頁)。

 人口増加・気候悪化に基づく17世紀危機(「人口と生産」の停滞。後述)を克服すると、「人口増加、都市化、および生産の成長が再開」し、人口は1750年2億7000万人、1800年3億4500万人となって、「16−18世紀の3世紀間で、中国の人口は3倍」になり、「ヨーロッパにおける人口増加より、はるかに大きい」ものとなった。大都市も登場し、17世紀初め、南京100万人、北京60万人、1800年までに広東・仏山150万人と膨れ上がった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』209頁)。

 こうした「人口と生産の成長」は、「スペイン領アメリカおよび日本からの銀の輸入」、「早熟性の稲の導入で二期作」が可能となった事、「米が作付けできない地域へのアメリカ原産のトウモロコシおよび馬鈴薯」を導入したことによって実現した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』209頁)。

 手工業生産の発展 この時期の「換金作物の栽培、手工業、および交易の増大」は、二大手工業(「揚子江下流域、上海近郊での綿工業と絹産業の拡大」)と「米(「上流域の安徽、江西、湖北、・・湖南、四川の各省で栽培された米」が河川で運搬)とその他の換金作物(綿花、藍、タバコ、陶器類、紙」など)」が、「この地域を中国の最も豊かな地域」とした。揚子江流域以外でも、「中国の南部(広東など)および南東部では、換金作物栽培と手工業が複数の地域で拡大」した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』210頁[Wong,R.Bin.1997.China Transformed:Historical Change and the Limits of European Experience.Ithaca:Cornell University Press])。

 広東、広西、福建は、「絹と陶磁器」の輸出で繁栄した。珠江デルタ(珠江河口の広州、香港、マカオを含む三角地帯)の農民は、水田に養魚池を築造し、その堤防に桑を植え、可耕地を「米の輸出単作地帯」とし、周淵の丘陵をサツマイモ・トウモロコシの耕地に変えた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』211頁[Marks,Robert B.1996."Commercialization Without Capitalism.Processes of Environmental Changes in South China,1550-1850."Environmental History 1,no.1(January)])。

 ルネサンス以前、火薬、紙、印刷術、羅針盤のみならず、「鋼鉄の共融解や酸素化処理技術、機械仕掛けの時計、回転運動を直線運動に変換する方法としてのベルト伝道やチェーン伝道、アーチ式橋および鉄橋によるつり橋、削岩設備といった工学的な仕掛け、さらに航海用の技術として、船首駆動および船尾駆動の外輪船、防水区画、船尾の舵」など、中国は世界の技術では「支配的地位」を占めていた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』336頁)。

 18世紀の初頭、広東地方では、サトウキビ、綿花などの商品作物が増加し、「可耕地の半分」までになり、食料米が不足し、「北京の中央政府は、さらに周縁的な土地の開拓や丘陵地の開墾」を免税などで奨励した。この結果、「森林破壊、土壌侵食、その他の環境破壊が進むこととなった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』211頁)。

 江南米作の発展「18世紀の半ばまでに、嶺南(中国南部の南嶺山脈よりも南の江南地方)の農業生態系は相当に商業化されて、市場に入る食糧の割合は、さらに大きくな」り、「市場は、同時期のイギリス、フランス、アメリカ合衆国よりも効率的に機能していた」(Marks,Robert B.1996."Commercialization Without Capitalism.Processes of Environmental Change in South China,1550-1850."Environmental History 1,no.1:p.77)のである。

 長江流域の米の詰み出しは、「価格を安定化させるという政府の市場介入」のみならず、高度な商業化にも基づいていた。桑でも商業的農業が展開した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』378頁)。

 「華南では、二期作によって収穫が増大し、灌漑地の増加によって収量は相対的に安定し、各地の備給および地域間交易によって供給は調整」された。さらに、華南では、「気候変動が収量に対して与えるインパクトを軽減」した事、「灌漑工事に代表されるような技術の改善」、「国家の穀物備蓄システム」、「効率的な市場メカニズム」などによって、、「農民、国家官僚、華南の穀物商人は、イギリスのそれに対応するものと比べ、・・より優れた管理を行なっていた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』379頁[Marks,Robert B.1997.Tiger, Rice,Silk and Silt.Envirinmental and Economy in Late Imoerial South China.New York:Cambridge University Press])。

 中国農業は、19世紀以前のヨーロッパ同様に、「商業化、財・土地・労働の商品化、市場を動因とする成長、世帯ごとの出産率調整と労働配分による、経済動向への適応」がなされた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』380頁)。合理的な行動がなされていたのであり、ウエーバー、ゾンバルトのいう中国「非合理」論は妥当しない。

                                     b 中国の貿易発展

 銀貨の吸収 中国は、絹、陶磁器の輸出で「銀貨を吸い寄せ」、紙幣を廃止し、「全ての税が銀納化され」、こうした「中国の公的な銀需要」と「中国経済の規模の大きさ、高い生産性、・・その結果としての輸出超過」が、「世界中の銀に対する莫大な銀の需要を生み出し、その価格を吊り上げ」た。こうして中国が「銀に基礎を置く社会」に転換したので、ヨーロッパと中国に価格革命(大量の銀が流入し、銀価が下落し、大幅な物価上昇をもたらしたこと)を惹起し、「銀を売ることで生命を保っていた」スペイン帝国を維持した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』212−3頁)。

 ポルトガル、オランダは、アメリカ原産のトウモロコシ、タバコなどを中国にもたらす一方、「東アジアの諸港に、中国とその近隣との交易の仲介者」として割り込んで、中国・日本の「経済拡張」から利益をあげようとした。明代の中国は世界市場で製陶器市場(80%以上はアジア向けで、うち20%が日本向けで、16%がヨーロッパ向け)を独占したが、1644年清国登場以後、「陶磁器輸出は、3分2以上の減少」をもたらした。この間、日本、ヴェトナムが陶磁器の輸出に着手した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』213−4頁)。

 中国の対英自立力 アジアは、遠隔地外国貿易などなくても十分自立できたのであり、中国では朝貢貿易とか近隣貿易とかで十分なのであり、欧州に陶磁器・絹織物・茶を輸出こそすれ、欧州から輸入するものなどはなかったのである。

 実際、1793年には、清朝第六代皇帝乾隆帝は英国国王ジョージ3世に、「(中国には種々貴重なものが海山を越えて集まり)ないものはない。なんじの正使たちが、その目で見たところである。このようであるから、妙を極め巧を尽くしたものを尊しとせず、なんじの国のつくった物品をさらに必要とはしない。・・固より外夷の物品と、交易をする必要はない」(フランク前掲書459頁[Frank,Andre Gunder.1978.World Accumulation,1492-1798,New York and London:Monthly Review Press and Macmillan Press])とした。清朝皇帝自らが、英国製品輸入の不要性をはっきりと主張したのである。

 中国独自の貿易圏 中国は、「インドから綿織物、東南アジアから香料・白檀・船舶用木材・船舶、世界中から銀を輸入し、綿織物の一部をヨーロッパへ輸出」した。浜下武志「朝貢貿易システムと近代アジア」(『国際政治』82号、有斐閣、1986年)、”Japan and China in the 19th and 20thCenturies” (1994.Paper presented at Ithaca,Cornell University,Summer)は、「中国を基礎とする独立のアジア世界経済」という観点を提出した。19−20世紀のアジアは、「中国を中心とする国内貢租/朝貢貿易関係によって特徴づけられ」、東南アジア・北東アジア・中央アジア・北西アジアに対して「中心・周辺関係」を持ち、「隣接するインドの交易圏ともつながりを持つ有機的な実体」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』214頁)をなしていた。

 浜下氏は、中国のアジア諸国への朝貢システムは「商業交易のネットワークと並列的ないしは共生関係にあ」り、「商業的拡大と朝貢貿易のネットワークは、手を携えて発展」したと主張した。「東アジアおよび東南アジアにおける中国の『朝貢貿易ネットワーク』は・・すでに二千年間にわたってそうであったわけであるが・・さらに広いアフロ・ユーラシアの世界経済のネットワークにおいて枢要な部分だった」。こうした浜下氏の「中華的な東アジアのモデル」は、「ヨーロッパ中心主義」を批判するものとなる(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』215−9頁)。

 「絹、陶磁器などの手工業生産における圧倒的優位」を基礎として、「『中国貿易』の経済的・金融的帰結として、中国は、諸外国全てに対して貿易黒字とな」り、インド同様に、「中国は、最大の銀の純輸入国」となった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』218頁)。

 浜下氏以外にも、フレデリック・ウェイクマン(17世紀中国危機が「グローバルな危機の拡散に実際にゆながっていた可能性がある」と指摘)、デニス・フリン(「世界の銀市場における中国の中心性」を指摘)らも、「世界経済全体において中国が中心的な位置を占めていた可能性を指摘」した。「中国が、世界市場における手工業生産において、その高い生産性と低い生産費用による競争力のおかげで、諸財を供給する生産を効率的に行っていた」のであり、フランクは、浜下氏以上に、「世界経済全体の秩序が中華的であった」と断言する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』220頁)

 そして、フランクは、浜下氏らを通して「東アジアに中華的なサブシステム」があることを再評価し、「世界経済に占める中国(揚子江流域および・・華南)そしてアジアの圧倒的な地位とその役割を強調」した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』238頁)。

 中華的多国間交易 こうした中国独自のサブシステム的貿易とは別に、中華的多国間貿易が展開した。

 当時の世界経済では、「アジア経済、特に中国経済が占める、相対的な比重およびその支配性が反映」し、「このような、グローバルな、中華的多国間交易は、アメリカの貨幣がヨーロッパ人の手によって注入されることを通じて拡大し」、ヨーロッパ人はアメリカ産銀で中華的多国間交易への関与を高めた。こうして、18世紀までの世界経済は「アジアの生産、競争力、そして交易によって支配されたまま」だった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』234頁)。

 この中華世界経済において、黒字の中国に対して、両アメリカ、日本、アフリカ、ヨーロッパは「商品交易の構造的な赤字」地域であった。両アメリカ、日本は、「銀貨幣を輸出用に生産することによって、その赤字を埋め合わせ」、アフリカは「金貨幣と奴隷を輸出」したが、ヨーロッパには、「恒常的な貿易赤字を埋め合わせるために輸出すべきものを、ほとんどなにも生産することができなかった」のである。そして、ヨーロッパは、「主として他の三つの赤字地域の輸出品を、アフリカからアメリカからアジアへ、アジアからアフリカとアメリカへ、という具合に『管理』することで、なんとか、赤字を埋め合わせていた」のである。また、ヨーロッパは、「ある程度、アジアの域内交易、特に日本と他地域との間に参加」し、これは「死活的に重要」であった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』234−5頁)。

 その中国の基礎は、「世界経済における絹と陶磁器の輸出の主導権を握」り、「金や銅銭、のちには茶の輸出」にあり、これによって「中国は、世界の銀が最終的」に集まってくることであることは、サブシステムのみならず、このシステムでも根幹であることは言うまでもない(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』235頁)。

 中国人は、日本人同様に、「国際的分業および国際交易と結びつ」き、「生産上、優越的な地位を保持」した。「明朝が公式には、規制をしていたにもかかわらず、華南の海外交易は継続し、外国人および『華僑』のコミュニティが、それに参加し」、福建人が「長崎や、マニラ、バタヴィアに居住」した。「中国の経済が、11−12世紀の宋代以来、世界の他のどの地域をもはるかに越えて、産業化され、商業化され、商業化や貨幣経済化が進み、都市化が進行した」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』375−6頁)。

 そして、「インド内、あるいは中国内における間地域交易の密度のほうが、世界の他の部分との間の交易よりも高かった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』143頁)ということである。もちろん、「中国交易の多くは、東南アジア人の手にはなく、中国人の手中にあ」り、「マニラやバタヴィアは『中国の植民市』と呼ばれていた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』197頁[Willis, John E.,Jr.1993."Maritime Asia,1500-1800:The Interactive Emergence of European Domination."American Historical Review February:pp.99-100])が、ヨーロッパの植民地と根本的に異なることは、政治的・経済的支配に国家が関わっていなかったということである。「多くの中国人が、職人、工人、および商人としてもやってきて、東南アジアに定着し、今日も有名な東南アジア華僑を構成した」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』197頁)にとどまった。中国国家は、『豊かな富をもつ国内の独立を維持するための匈奴の侵入防止のための城壁などをつくりこそすれ、外国に政治的拠点を設けて侵略することはなかったのである。これが、中華的多国間交易の特徴の一つでもあった。
 
                                       C インド 

 世界二位の貿易大国 世界経済の観点から見ると、「インドではなく、中国が、莫大な量の高額商品を輸出し、莫大な量の銀を輸入する、トップ・ランナー」だったが、インドは「非常に重要な産業、特に綿工業の中心たる地位を占め」、「中国にそれほど引き離されていたわけではない」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』310頁)。

 綿業において、「インドは、少なくとも1400−1800年の4世紀にわたって、トップの競争力を維持し」」、「染色についての新技術」をオスマン帝国、ペルシアから輸入し、「イギリスは、染色技術の根本を、インドからそっくり模倣」する程に高かったのである。さらに、インドは、「中国やペルシアとともに、陶磁器産業においても新技術を高めていった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』347頁)のである。

 インド貿易 インド貿易は、「圧倒的に財宝の輸入で占められ」る対中東貿易、輸出が「香辛料、芳香料、中国の物品の輸入」で「帳消し」になる対「東南アジア」貿易、「銀の(相当な)再輸出」である「ジャヴァ、スマトラ、マラヤ、中国方面への」輸出、大量の織物のマニラ経由でのスペイン領アメリカ向け輸出などからなり、「収支の黒字は、貴金属となって定着」した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』178頁[Chaudhuri,K,-N.1978.The Trading World of Asia and the East India Company 1660ー1760. Cambridge:Cambridge University Press.p.185])。こうして、インドは、「より効率的で低コスト」で生産する綿織物と胡椒の輸出で「莫大な・・貿易黒字」を計上した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』178頁)。

 さらに、インドは「米、豆類、植物油のような日用食料の輸出も行っていた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』178頁).。17世紀には、ムガールの中心都市(アグラ、デリー、ラホール)は50万以上の人口をもち、商業港市の中には20万人の人口をもつものもあった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』175頁)。「全インドで最も生産力の高い地域は、ベンガル」であり、「ベンガルは、綿織物および絹織物と米をインドの他地域の大半に輸出し」た(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』185頁)。

 こうしたインド交易拡大の一方向は、「中央アジア、ペルシア、メソポタミア、アナトリア、レヴァント、アラビア、エジプト、東アフリカ」という西方であった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』373頁)。

 インド織物業 インドでは、「世界市場を支配した綿布」とそれほどではないベンガル絹布があり、「このような手工業からの競争力は、土地の生産性(「産業には原材料」、「労働力には食料」を供給する能力)および、運輸・商業の効率性(原材料・労働力の供給と輸出入の推進の効率性)によ」っていた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』235頁)。

 そして、インド織物技術は自立的に発展していた。つまり、「熟練による特化と低い労働コストだけが、インドの産業の利点」など言うのは間違いであり、「いくつか輸入技術が散見されるとはいえ、織物技術は、内発的に、漸進的な発展を遂げていた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』348頁[Ramaswamy.Vijaya.1980."Notes on the Textile Technology in Medieval India with Special Reference to the south."The Indian Economic and Social History Review 17,no.2,p.241])のである。

 インド銀行システム さらに、インドの「銀行システムは、効率的で、一国を通じてよく組織立てられていた」(368頁[Nehru,Jawaharlal.1960.The Discovery of India.New York:Dobleday,Anchor Press.p.192])。インドでは、「各地における、農産品および手工業製品両方の生産者および流通業者は、信用および・あるいは実物による、先払いの複雑なシステムに結び付けられていた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』371頁)のである。

 なお、インドの数学および天文学は、「17および18世紀のヨーロッパ人が、その天文データの一覧および関連文献を、インドから輸入するほど進んでいた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』337頁)。

                                          D 東南アジア 

 東南アジアは、「紀元後からのみならず、紀元前からずっと、それ自体として高度に文明化され、高い生産力を持つ人々の住む広大な地域」であり、「ヴェトナムの越国および占城(チャムパ)、カンボジアのクメール人によるアンコール朝、ビルマのペグー朝、シャムのアユタヤ朝、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国および、その没落後に出たマジャバヒト王国」が登場し、「インド、中国と経済的・文化的に広範囲な関係を持っていた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』187頁)。

 7−13世紀、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国は、「島嶼部と半島部を含む広大な地域を支配」し、13世紀ジャヴァは「世界で最も豊かな場所」で、モンゴルはその征圧に失敗した。14−15世紀、ジャヴァ人のマジャバヒト王国が「インドネシアの中央部のほぼ全域を支配」した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』187頁)。

 1400年頃から、東南アジアは、「東アジア、特に中国や、南アジア、西アジアそして、それからヨーロッパからの香料・胡椒の需要の増大」に応じて、拡大が始まった。「東南アジア産の胡椒は、インド産のものより三分の一も安く生産できたので、インド産の胡椒を駆逐」し、さらに「綿花の方が・・広範に普及した換金作物」となった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』191頁)。やがて、東南アジアでは、胡椒(スマトラ、マラヤ、西ジャヴァ、ボルネオ)と香料(モルッカ諸島、バンダ諸島)が二大産品となり、「東南アジアは、世界で最も豊かで、商業的に最も重要な地域の一つ」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』187頁)となった。

 中国はここ東南アジア諸国に「保護領や被後見国の地位を押しつけ、帰属のしるしとしての使節派遣を強制」し、それ以上の要求をしなかったが、東南アジアは、「インドのほうが中国より重くのしかかっていた」。インドは古くからヨーロッパとの結合があり、「あらゆる面において創造力を発揮した」が、中国は、「東南アジア諸島まで来て極限に到達してしまい、その先へはほとんど越えて出なかった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、185頁)のである。

 1403年には、マラッカが建設され、東南アジアの「主要な集散地」となり、1万人のグジャラート人を集め、交易センターとして発展した。15世紀前半マラッカは明の朝貢国となり、「攻撃的で物騒」なシャムと、「マジャバヒトの皇帝支配」をうけていたジャワとに呑み込まれることなく、興隆した(189頁)。1414年イスラム教に改宗し、「商売と改宗勧誘熱」が「手を携えて進み」、「好機」を迎えた。マラッカの重要性は、「インド通商の拡大に直接的に由来」し、「インドの商人はスマトラにもジャワにも椒」という「重要な贈物」をし、市場経済をもたらした(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、190頁)。

 1511年ポルトガルはマラッカ占領して、「マラッカの交易の独占を通じて他の交易をも独占」しようとし、「多くのムスリム」をアチェなどに追い出したが、アチェを発展させ、独占には失敗した。1641年、この弱体化をついて、オランダは「ジョホールの助けを得て」、「ポルトガルからマラッカを奪った」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』195−6頁)のであった。この結果、マラッカは、「二流以下の役割に突き落と」され、代わって、オランダのバタヴィアが、1世紀余「極東商取り引きの中心」となり、「新興都市バタヴィアは』オランダの優位の輝かしい象徴」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、194頁)(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、194頁)となった。

 こうした東南アジアの発展によって、人口は1600年2300万人となり、「ヴェトナムのタンロン、シャムのアユタヤ、スマトラのアチェ、ジャヴァのバンタムとマタムラ、セレベスのマカッサル」など10万人内外の都市が登場した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』191ー2頁)。


                                  E 17世紀の危機ーヨーロッパの一時的勃興 


 ヨーロッパの危機と克服 ヨーロッパは17世紀には危機に直面するが、「危機の内容には、農産収量の不足と飢饉、伝染病、経済の後退と政治的混乱に伴う人口減少」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』394頁)であった。

 アドシェドは、この17世紀危機に「中国とヨーロッパが、それに異なる対応を見せ」、「中国が以前と同様のことをさらに行なっただけである」が、「ヨーロッパは制度的構造を変化させることで、そこから回復した」と主張した。これに対して、フランクは、「中国の制度的構造も適応を遂げ、18世紀の急速な経済成長を産み出し、あるいは少なくとも、それが起こりうる条件を作り出し」、「依然として周縁的であったヨーロッパは、・・世界規模の深い影響を与えることなど、全く不可能であった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』417−9頁)と批判した。

 もともと「コンドラチエフ波は、完全にヨーロッパに基礎をおいており、せいぜいのところ、大西洋経済についての話」であり、この時期インドやラテン・アメリカは「顕著な拡大を経験」した。これは「ヨーロッパおよび/あるいは大西洋経済は、世界経済の中心ではなかった」ことを示している(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』419頁)。

 一方、「世界経済におけるヨーロッパの立場は、不利」なものであったが、それは、アメリカの貨幣に対する特権的なアクセスによって、部分的に埋め合わされることとなった」。つまり、アメリカ大陸では、奴隷労働で「砂糖、タバコ、造船用の木材、特に綿花などのその他の輸出作物が確保され、ヨーロッパに輸出され、また「西欧による、東欧・北欧からバルト海経由での、穀物、材木、鉄の輸入も、アメリカの貨幣および、ある程度は織物によって支払われた」。アメリカの金銀貨幣は、「アジアの香料や、絹、綿織物、その他の実態財の全ての輸入を可能にした」のである。さらに、このような、「アメリカの砂糖と大西洋の魚類」の輸入が蛋白質を供給しその分農地転用が可能となり、「アジアの綿織物」の輸入は羊毛依存度を低め牧野の転用が可能となった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』581−2頁)。

 こうして、「西欧人は、世界経済における自らの地位を利用して、西のアメリカ大陸からと、東の東欧およびアジアから、直接財の供給および資源を引き出すことによって、それを補填することができ」、「これらの追加的な資源の供給は、ヨーロッパ内の自由に使用できる資源を増やして、ヨーロッパ自身の発展に用いられた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』582頁)のであった。


 中国の危機と克服 では、中国はどうであったか。S.A.M.アドシェド(Adshead,S.A.M.1973."The Seventeenth Century Crisis in China."Asian Profile 1,no.2)は、「ヨーロッパの危機は、実際には、その影響という点で、世界規模であり、・・ヨーロッパにだけではなく、イスラム世界や東アジアにも影響を与えた」と主張した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』396頁)。しかし、フランクは、「アジアを含む、世界のいくつかの部分で、比較的に短い(1630年代、1640年代)経済的・政治的危機が、同期的にあった」ことはあっても、アジアに「持続的危機が存在」したことはなかったと反駁した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』396頁)。彼は、17世紀、ヨーロッパでは経済の後退が起きたが、「インドでは拡大が起きていた」とし、「明らかに、持続的・一般的な『十七世紀の危機』などは存在しなかった」と主張した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』402頁)。

 アトウェルも、17世紀に東アジア、南アジア、北アジア(シベリア)で「長期的な危機」はなかったとする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』400頁)。ファロキは、1600年頃オスマン経済に「遊休状態」があったが、「オスマン経済には、それ自体の潜在力があり、不活性で無防備だったのではない」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』401頁[Faroqhi,Suraiya.1994."Part U Crisis and Change,1590-1699"Cambridge:Cambridge University Press])と主張した。

 確かに、17世紀中葉、「気候上の原因」「貨幣にかかわる原因」で、中国と日本に20−30年程度の「短期的な危機」(「コンドラチエフ波動の下降局面」)が起きた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』403頁)。この時期、「例外的に寒冷な気候や、疾病の拡大、人口成長の停滞、地域によっては人口減少、交易の停止、貨幣供給にかかわる問題」などは「ユーラシアの多くの地域を襲」い、「すでに弱体化していた明朝の体制は、その餌食となり、経済は停滞し、結果として国内政治反乱が起こり、体制の財政・軍備は弱体化して、それに抗することもできず、そして外からの満州族の侵入を撃退することもできなかった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』410頁)。「中国への銀の供給は、急激に下降し、華南にデフレと景気の後退をもたらし」、「困り果てた政府は、徴税を強化したが、今や、銀も銭貨も乏しい華南の人々は、それに応じ」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』410頁)ず、1644年明朝は「まず華北において国内反乱によって倒され、続いて満州族によって征服」された。

 一方、日本といくつかのヨーロッパの国家は、「持続的な銀供給のおかけで・・貨幣的・経済的な嵐の中を潜り抜けた」のであった。「銀不足による貨幣危機」に対して、日本がオランダ以外と鎖国したのは、「オランダは、日本に、銀だけではなく、他の財の輸出の可能性をもたらし」たからであるともする。フランクは、中国が海上交易から部分的に撤退したのもこうした「同様の財政的考慮を背景として、再分析されるべき」とする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』417頁)。

 このミニ危機から回復して、世界経済は「成長と安定性」を回復し、「新たに再編成」された(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』417頁。

 アジア衰退・西洋勃興 このアジア拡大基調は1750年まで持続した。1815年、「東洋の衰退と、西洋の勃興」が始まり(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』442頁[Murphey,Rhoades.1977.The Outsiders.Western Experiences in India and China,Ann Arbor:University of Michigan Press])、1825年、「東アジアの都市とヨーロッパ/大西洋の都市の間の相対的な都市の位階制を示すグラフは、アジアの経済的・政治的パワーが退潮」する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』442頁)。1850年、ロンドンが北京に代わって、「世界最大の都市」になった。

 アジアでは、「大きな生産と人口成長の拡大が続いていて、対するヨーロッパは、相当にあとになってからでしか、それに追いつかなかったのであ」り、「世界経済の最も強力で、最もダイナミックな部分は、依然として、中国とインドにあ」ったのである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』443頁)。こうしたタイム・ラグに乗じて、ヨーロッパ中心主義者は、ヨーロッパのアジア侵略基調を緩和させようとする。例えば、ブローデルは、19世紀以前、人口、富では「世界のほうがヨーロッパよりたちまさっていたし、またナポレオン失脚の直後、イギリスの優位の曙光がさしそめたころになっても、ヨーロッパはそれが搾取していた世界ほど富んではいなかった」が、「ヨーロッパの優越した地位がどのように確立できたのか、そしてなかんずくそののちも前進を続けることができたのか」は「今はまだわかっていない」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、199頁)とするが、ヨーロッパによるアジア・アメリカ・アフリカの冨の収奪は明確ではないか。

 フランクは、18世紀東洋衰退は「西洋の勃興に先行」したと主張する。西洋列強の衝撃を受ける前に、各国のブルジョア的経済発展で税収が減少し(筆者)、清朝、ムガール帝国、サファヴィー朝、オスマン帝国は衰退していたのである。経済の発展で旧権力が衰退し動揺したのであり、新権力が登場する前に、西欧列強はこの衰退に乗じて植民地支配を深めていったのである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』446−7頁)。

 中国衰退の始まりは、「1774年に山東省でおこった白蓮教徒の反乱」と「翌年のその再発」であった。18世紀末、「ヨーロッパ人が、シナ海から中国人商人を駆逐」したが、まだ「中国側が・・大きな黒字を計上」していた。19世紀、アヘン貿易でこれが逆転した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』459頁)。1840年アヘン戦争、1842年南京条約で、中国は没落しはじめた(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』460頁)。

 フランクは、「1400−1800年」の「現実の世界」は、ウエーバー、マルクスなど「ヨーロッパ中心的な歴史や『古典的』な社会理論」や「ウォーラーステインの『近代世界システム論』」が「ヨーロッパの支配性というものを仮定或は主張」していることの誤りを指摘した。フランクは、「1800年ごろまで、世界経済がヨーロッパを中心にしていたなどということは、まったく想像の余地もないこと」であり、また「いかなる有意な点においても、ヨーロッパに起源を持つ(そしてヨーロッパによって伝播された)『資本主義』、ましてや発展などによって定義・規定されるものではなかった」ことを指摘した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』464頁)。

 インド衰退をイギリス植民地主義との関連から見ると、フランクは、「インド、特にベンガルの織物産業における経済的衰退が、1757年のプラッシーの戦い以前に、すでに始まっていたことを示す相当な証拠はあ」り、「それに伴う、ムガール帝国その他の政治的混乱は、略奪的なヨーロッパ商人、海軍、そして究極的には政治的権力に対して、アジア人を脆弱にした」とする。18世紀中葉に、ヨーロッパ人は、「インド人の水域で、現地にもとからいた海運業者および商人から、新たな規模で、その海運業を奪い取」り、「インドは、ヨーロッパのヘゲモニーの前に、『没落』を始めた、アジアで最初の政治経済的パワー」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』456頁)となったとする。この点、ブローデルは、インドは「自分から征服」されたとして、ヨーロッパ侵略の正当性を主張するが、あくまでヨーロッパが巧みに虚をついてインドを侵略したのである。ヨーロッパ人は、域内通商従事の船員、東インド会社の軍隊、買弁などに、現地人を雇っていたり、使用したが、こうした協力者が「現場を占め、富を築いているかぎりは、この腐れ縁から解放される」事は不可能であった(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、140−2頁)。大国インドの政治的動揺や末端統治力弛緩をとらえて、巧みに侵略地域を拡大していったのである。その先頭に立ったのがイギリスであり、「イギリスによる征服まではヨーロッパ人の活動はアジアを掠めたにすぎず、それはいくばくかの海外支店の活動以外に出るものではなく、アジアという巨体ににはほとんど影響を及ばず、このようにしてヨーロッパ人が占拠したといっても、それは表面的だけのことで内部まで及ばず、無害で、文明も社会も変えず、経済面で輸出業、つまり生産の二次的な一部に関わったにすぎない」のである(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、150頁)。

 フランクは、こうしたヨーロッパのアジア侵略を的確に述べている。つまり、フランクは、「世界経済が圧倒的にアジアに基礎を置く」と主張し、西洋が「まず第一に『大航海時代』を推進」したのは、西洋人がアジアに「加わろうともがいてき」て、「そこへ至るなんらかの道を、とにかくがむしゃらに探り、できうれば特に黄金へいたる道をめざそう」というものであった。そして、ようやく19世紀になって、彼らはアジアの動揺を「悪用」して、「はじめて・・その進行の先頭に立つことに成功」した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』464−5頁)。さらに、アジアにおける「経済的・政治的緊張の増大」は、「ヨーロッパ人の供給する銀、および結果として増大した購買力、収入、そして国内市場や世界経済、特にアジアにおける輸出市場に対する需要によって」促されたのである。

 この結果、18世紀後半、「オスマン帝国、およびインド(「織物における競争優位を失い」)、中国の帝国の衰退の傾向は加速」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』449頁)した。

                               
                                  四 日本の自生的産業革命の可能性 

 鎖国前の経済展開 13世紀には、日本で「相当な経済発展」があり、15−16世紀には日本と中国・朝鮮との交易は「急速にその厚みを増し、交易投機は、極東の他の部分にまで広がり、マラッカ海峡にまで達した」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』201頁[Sanderson,Stephen K.1995.Social Transformations:A general Theory of Historical Development. Oxford:Blackwell])のであった。

 宋代末期、明代初期に「中国が世界経済から撤退し、経済的に下降していた」が、日本は、「極東交易に活発に参与」し、「大きな経済的真空」を「すばやく埋めた」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』201頁[Sanderson,Stephen K.1995.Social Transformations:A general Theory of Historical Development. Oxford:Blackwell.p.154])。

 1560年以降、日本は、「まず銀の、次いで銅の主要な生産者および(中国および東南アジアへの)輸出者」となり、また、「ある程度の金とかなりの量の硫黄、ならびに樟脳、鉄、刀剣、漆、家具、酒、茶、および高品質の米」などを遠くインド、西アジアにまで輸出し、「中国の絹やインドの綿布」、朝鮮・中国・東南アジアの「鉛、錫、木材、染料、砂糖、皮革、水銀」などを輸入した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』203頁)。

 陶磁器産業では、日本は「中国と競合」するようになり、1645年「中国からの陶磁器輸入を80%も減ら」し、1658年からは「相当な輸出量を誇る」までになり、中国のみならず「ペルシア湾、ヨーロッパ」にまで輸出した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』204頁)。

 1570年ー1630年、日本では「国家が統一され、活発な国内交易の核として都市が繁栄し、東南アジアとの旺盛な交易を支えるために、尋常ではない量の銀が採掘」された。「日本銀と中国の絹との交換は、東南アジアの諸港、特にマニラとホイアン(中部ヴェトナム)で行われ」、1604−1635年毎年10隻の船が「南下して交易する許可」を得た(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』204頁[Tarling,Nicolas,ed.1992.The Cambridge History of Southeast Asia.Vol.1,From Early Times to c.1800.Cambridge:Cambridge University Press.pp.467-8])。

 鎖国下の経済展開 1635年鎖国後も、長崎で対中国・蘭国との管理貿易が行われ、1650年代「毎年200隻の中国船が長崎に入航」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』205頁)した。

 日本の人口は、1500年1600万人から1750年2600−3200万人に倍増し、以後「人口の伸びは横ばい状態にな」った(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』205頁)。「人口こそ安定したが、農業、その他の生産は向上し続け」、「人口あたりの収入は、18世紀の間に増加」した(同上書205頁[Hanley,Susan B.,and Kozo Yamamura.1977.Economic and Demographic Change in Preindustrial Japan 1600-1868.Princeton University Press])。なお、イギリの人口は583万人(1700年)、600万人(1730年)、666万人(1760年)、821万(1790年)、1200万(1820年)、1800万(1850年)と増加したが(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、240頁)、はるかに日本の人口より少なかった。こうした日英の人口差は、「米の土地面積当たり人口養力は、小麦=畜産という方式よりはるかに高い」からであり、「日本が、この狭い国土で、ともかくも現在のような多大な人口を養いえて、少なくとも主食については、あまり多く外国に依存しないですんだのは、米食である」(栗原籐七郎『東洋の米 西洋の小麦』228頁)ことにもよっている。

 また、日本の外国貿易は鎖国下でも減少することなく行われ、中国絹の輸入は1770年まで途絶えることなく、「日本と東南アジアとの交易も、繁栄を続けた」。この間、「日本の顕著な都市化」が見られ、1600年頃10万都市は5つとなり、18世紀までには「日本の都市人口は、同時期の中国よりも、またヨーロッパよりも高」く、大坂・京都と江戸は100万人都市となった。18世紀末には、日本の人口の15−20%が都市化され、「日本の人口の6%は人口10万人以上の都市に居住」した。これは、ヨーロッパでは2%に過ぎなかったことに比べても、高い数値である(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』206頁)。

 このように、鎖国下でも、日本は停滞しなかったのであり、フランクも言うように、「1853年のペリー提督の来航が、日本を『開国』した」とか、「1866年の明治維新によって、徳川時代との突然の断絶を説明するような考え方」は再検討されねばならないのである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』207頁)。

 実際、日本では近世には「鎖国」までしても国内産業・交易は頗る活発だったのであり、幕末には畿内など先進地では工場制手工業(マニュファクチュア)が既に展開しており、自生的産業革命の可能性すら十分にあったのである。幕末維新期のマニュファクチュア研究には長い長い歴史と少なからぬ蓄積がある。

 産業革命の二類型 従来産業革命と言えば、「上からの道」・「下からの道」など一国的視点から把握しがちであった。だが、文明始原以来の世界史的パースペクティブから産業革命を見れば、実は、こうした「豊かな」アジアの自生的な「平和的」産業革命と、「貧しい」ヨーロッパの帝国主義的な「戦争的」産業革命という二つの「対抗的」類型があったということが留意されるのである。

ブローデルは、「成長が『じっさいに生ずる』仕方は重合局面に由来し、相対的には短期的な状況、四囲の事情の誘い、技術的発見、国民的あるいは国際的好機、ときには純然たる偶然に左右された。たとえば、もしインドが木綿織物業の国際的選手でなかったとするならば、産業革命はたぶんどっちみちイギリスに始まったにしても、はたして木綿から始まったろうか」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、276頁)としているが、インド綿業の影響なくして、植民地地型のイギリス産業革命は、なかったか、或は遥かに遅いものとなったであろう。 また、ブローデルは、「イギリスがその革命に成功したのは、それが世界の中心に位置し、世界の中心そのものだったからである」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、212頁)とするが、世界の中心とはヨーロッパ植民地主義の中心ということ以外の何物でもないのである。イギリスは、何よりも植民地のおかげでも産業革命に成功したのである。

 イギリス産業革命に先んじて、アジア、特に日本が、先に「平和的」産業革命を遂行していれば、ヨーロッパの砲艦外交による不平等貿易の強制はなかったであろう。それのみならず、平和的なアジアはヨーロッパを軍艦で恫喝しながら、高生産性による競争優位の廉価繊維製品を強圧的に輸出したり、さらにはヨーロッパを半植民地化・植民地化することはなかったであろう。アジアでは、過剰生産を軍事的圧力によって対処しようなどとは思いもつかなかったのである。その結果、世界には「平和」な資本主義が広まっていたであろう。

 インドの自生的産業革命論 こうしたアジアの自生的産業革命に関して、インド歴史家には、イギリス侵略以前、「自国産業が当時のヨーロッパの産業と比較できるものだったかどうか、自分自身の力で一種の産業革命を始める力が自国にあったか否か」を研究するものがいる。インドでは「原形的産業」は「あまたの障害」に直面した。この障害にカーストを指摘する者もいるが、ブローデルは、「古来のカースト・システムは分業が進むのと同時に進化し」、アグラには百以上の「多様の職種」があり、「労働者は報酬のよい労働を求めて移動」したとする。カースト以上に「もっと重大な障害」は木製の貧弱な道具類だとする。「ヨーロッパ流の金属製の機械では、値段が高くて、人力を節約しないかぎり割があわなかった」が、インドでは「人力は豊富にあって、報酬が僅かですんだ」のである(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、159−160頁)。

 インド人は鉱山技術が遅れ「専ら露天掘りで鉱石を採掘」していたが、坩堝で「上等」な鋼鉄をつくりあげ、「ヨーロッパの冶金より進」み、「船の碇、見事な武器、・・サーベルや短剣、上等な小銃」などをつくり、「ペルシアその他に高い値段で輸出されていた」。大砲もつくられ、1664年には、重砲隊・軽い砲兵隊が編成され、「小銃と大砲とがすでにインド全土に行き渡っていた」のである。また、「インド各地の造幣局はヨーロッパの造幣局に引けを取らなかった」し、耐久性ある巨船を建造するスーラト造船所、ボンベ―造船所などは驚嘆すべきものであった。「インド織物業の驚異的な生産」が展開し、「都会には織子の働く店が増え」、「スーラトからガンジス河にかけて工房が星雲状に散らばっていた」。インドでは、綿業では、「木綿糸の生産」、「織り」、「漂白」、「布地の仕上げ加工」、「プリント」など各部門が「別々に仕切られた組織」をなしていた。17−8世紀、綿織物業で「需要と生産とが莫大な増加を遂げ、職人の選択の自由が強ま」ったが、賃金の一般的水準は低かった。地主、貴族、皇帝、用達らは、「労働力が集中」した「大規模な作業場」を経営して、「工場主は、そこでできるすばらしい贅沢品をすすんで輸出」した。「インド全体が絹と木綿とを加工し、信じられないほどの量の織物を輸出」した。「イギリスで機械革命が起こるまでは、インドの木綿産業はその品質においても生産量においても、はたまた輸出量においても世界一であった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、161−167頁)。

 17世紀以降インドの廉価で「すばらしい」純綿布地が輸入され、ヨーロッパ市場を席巻したので、イギリス(1700年、1720年)とフランス(1686年)はインド綿布販売を禁止し、「ファスチアンよりはむしろ毛織物を守」ろうとしたのである(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、251頁)。「インドの職人と競争できうるのは機械」だけであり、ここに、「1775ー1780年ごろ、アークライトおよびクランプトンの機械ができてようやく、インドの撚り糸のように細くて、そのうえ腰の強い、しかも純綿の織物に使うことのできる木綿糸を手に入れることができるようになった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、251頁)のである。

 この世界一のインド木綿業に機械革命が遅れた理由は、低賃金労働力が豊富であり、さらに政治的に不安定であり、内在的市場支配は不十分であり、機械革命に踏み込む必要性が希薄であったということであろう。18世紀、インドは、「農法は伝統的だったが、豊かで、生産性が高」く、「産業は旧式だったが、きわめて活発で、能率的であ」り、「インドの鋼鉄はイギリスの鋼鉄より質がすぐれ」、「全土に市場経済が行きわた」り、「あまたの能率的な商業圏」を持っていたが、「インドはこの空間を支配して」おらず、「アジアのカントリー・トレードの航路を奪われ」、「外部の手ですこしずつ貧しくされ」、「十八世紀のインドは、革命的産業資本主義を生み出す前夜にはなかった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、183頁)のである。


                                        産業革命用語の再検討 

 この「産業革命」という用語は、1837年フランス経済学者アドルフ・ブランキによってつくられ、1884年アーノルド・トインビーのLectures on the Industrial Revolutionで古典的使用がなされたものである(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、206頁)。彼らは食料革命などの存在を知らず、食料革命と衣料革命の比較などという視点は欠落している。

 周知の通り産業革命は食料革命と並ぶ人類史上の大革命であるが、従来食料革命が農業革命などと称されていたが、最新の筆者の研究で、世界史的パースペクティブからその実態(既に世界各地に農業があってそれを革命したというならば、この用語は世界史的に妥当するが、これは事実に反するという事)を踏まえれば食料革命という名称が相応しいことが明らかになったように、この産業革命という用語も、こうした世界史的パースペクティブから修正される必要があるか、或は新しい定義を与える必要があるかもしれない。これは、今後の学問的課題である。

 この点を若干敷衍しておけば、人類の生活に関わる大革命の基本的な共通性は、食料と衣料という人類の主要生業において生産性革命として生起したということである。人類の主要生業における食料革命も衣料革命も、ともに生産性革命なのである。人類の主要生業における生産性革命は、生業であるだけにその必要が切実であり、かつその影響が大きいものとなったということである。では、基本的な相違点とはなにか。それは、生産・営業方式において、前者の食料革命が「自然と人智との連動作用」だったのに対して、後者の衣料革命は「機械と人知の連動作用」であり、自然や宇宙の秩序を非可逆的に破壊しはじめたということである。なお、人智とは「自然の哲学などに基づく智」であるが、人知とは哲学的基礎なく「利益を生むための知」(その象徴がグーグル的知)という違いをこめて使用していることに留意されたい。

                                  @ 産業革命の世界史的意義

 産業革命前のヨーロッパ まさに、産業革命前のヨーロッパには、「東方へ売るべき工業製品がほとんどなかった」のである。そこで、「彼らは、主としてアジア経済内部の『カントリー・トレード』に割り込むことで、利益をあげた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』311頁)のである。そのヨーロッパの利益源泉は、「複数の市場において、交易を担い、地金、貨幣、および諸商品の多様な取引の交渉をすることから、圧倒的に得られていた」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』311頁)。

 地金・貨幣を扱うために、「アメリカ大陸の植民地に頼」りつつ、「彼らの活動」は「全世界経済にまたが」り、「巨大な地金供給を支配」した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』311頁)。ヨーロッパが、「貨幣以外の商品を輸出する能力を欠き、そのため、慢性的な交易赤字が発生し、恒常的にヨーロッパが世界経済でやっていける唯一の根拠」であり、「アジアとの商品の交易での巨大な赤字」を補填しようとした(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』312頁)。

 そして、「彼らの海上における力は、ずっと小さいもの」で、「勅許会社あるいは私企業という形態の、彼らの商業組織も・・競合する他地域のものと大して変わるところのないものであった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』311頁)。

 産業革命以前、ヨーロッパ商人が買うべき商品を見つけても、購入資金がなかったが、18世紀末から19世紀にこの問題は克服され、貨幣は「東洋から西洋へ流れるようになった」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』312頁)。

 産業革命の世界史的意義 従って、フランクが、「産業革命の、これらの技術的発展は、ヨーロッパだけの業績とみなされるできはな」いとすることは的確というべきである。フランクは、続けて、「むしろ、世界発展として、より適切に理解されなければならない」とし、「その世界発展の空間上の場が、その時、ながらく東方を移動した後に、西方へと移動してき」て、「産業革命における、ヨーロッパ『特有の』特徴ないしは要素は何か、ということではなく、むしろ、このような東から西への産業のシフトが、いかにして何故に起こったのか」を追究することだとする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』476頁)。産業革命は、ヨーロッパだけの産物ではなく、長年蓄積されてきたアジアの富と無関係ではないというのである。

 フランクは、「そのシフトの理由についての答えは、東洋の衰退と西洋の勃興の両方に見出されねばならない」とする。この観点から、フランクは、既存見解の欠陥として、@優越性を「ヨーロッパの属性」とし、A「ヨーロッパの勃興の理由」を「ヨーロッパの内部に探し」、「東洋の衰退の分析を怠」り、B「世界経済「そのもの全体の構造と作用において、『西洋の勃興』と『東洋の勃興』の理由を探すことをしていない」ことを鋭く指摘する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』477頁)。

 フランクは、産業革命の理由として、低賃金アジア市場に対抗するための、労働節約的な機械の発明による高賃金対策をあげる。つまり、彼は、@アメリカでは、「人口/土地資源比が低く、フロンティアの拡大が低賃金の重労働からの逃げ道となっていたため、賃金は初期から相対的に高かった」ので、19−20世紀には「労働節約的な機械を発明し、革新し、使用する誘因はヨーロッパから、大西洋をわたってアメリカへと、次第にシフトした」とされ、Aヨーロッパ人も、アメリカ人以上に、「市場を求めて、第一にアジア人と競争せねばなら」ず、高賃金・高コストのヨーロッパ人は「アジア人(「ずっと低い労働コストによって、ヨーロッパよりも、ずっと生産性・競争力が高かった」)にほとんど何も売ることができ」ず、これを打開するために「労働節約的な機械の発明、革新、応用」の必要があったとする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』478頁)。

 そして、フランクは、イギリス・西欧は、まずもって「織物市場」で「インド、中国、ならびに西アジアと競争しなければなら」ず、「相対的な需要・供給の差が、世界全体のなかでの相互の関係において、地域ごと、部門ごとに異なった比較費用と比較優位を生ぜしめ」ており、「このような構造的差異は、単一のグローバル経済の、さまざまな企業、部門、地域が、労働、土地、資本、労働節約的技術などについて、地域ごとに異なった合理的なマクロ経済的対応をする基礎となりえたのである」と、具体的な地域差を指摘する(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』482頁)。

 ここには、産業革命の世界史的要因把握の試みがなされているといえよう。つまり、「マンチェスターに、あるいはジェイムズ・ワットの蒸気機関工房」に「内的な」状況とは、こうした「世界経済への参加によって産み出されている」のであり、「世界経済(世界システム)の構造と動態それ自体によって、世界のありとあらゆる場所で、比較費用、比較優位、同じ物への合理的対応の差異が産み出されている」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』482頁)というのである。

 フランク、ケン・ポメランツ、ジャックゴールドストーンは、これをさらに詳細に掘り下げる。即ち、彼らは、「1800年前後の技術変化についての見解」において、@「産業革命の技術革新は、労働『節約』的というよりは、むしろ労働『延長』的であって、労働と資本の生産性の両方を増大」させた事、A「直接賃金レート(費用)」は、インドでは「その可能性はない」としても、中国の揚子江・華南はヨーロッパ(特にイングランド)同様に高かったこと、B「収入の分配は、おそらくインドではより不均等であったろうが、中国とヨーロッパとでは同様であった可能性がある」こと、C「世界規模での比較賃金費用の問題は局地的・地域的な労働配置の問題とも関係している」こと、D農業・工業の労働配分・状況はインド(「強制労働」、産業労働者は生存財を市場で獲得)・中国(女性労働者は村に縛られ、産業労働者は直接農村から生存財を獲得)とイングランド(囲い込みで「男性および女性労働は土地から締め出され、都市で雇用」)では異なっていたこと、E織物業における産業革命は、外部からの綿花の供給と、「世界」市場が必要であったこと、F産業革命には、「固定式の、次いで可動式の蒸気動力を発生する機械の製造と使用に石炭を使用すること」によっておきたこと、G「これらの動力源は・・鉱業、輸送、生産における労働と資本の集中を必要とした」こと、H「そのような『革命的』な産業用動力、装備、組織、そして、それらを機能させるに必要な労働力への投資」は、「(a)「労働配分と費用の代替可能性」、(b)「その他の生産投入物についての立地と比較費用」は「資源についての地理的な立地と、その入手しやすさの経済的な変化に関係している」こと、(c)「資本の入手しやすさと、それを使用する利益獲得方法の代替可能性」、(d)「市場の浸透度と潜在的可能性」であるとした(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』516−8頁)。

 フランクは、上記9要因で、「インド、中国、ヨーロッパ、そして世界」で転換が起き、インド・中国の衰退、英国の台頭を説明する。つまり、彼は、@インドでは、「綿花、食糧、その他の賃金財の国内供給」は安価であり、「生産、流通、金融の組織や運輸は相対的に効率性を保っていた」が、「代替的な動力および原料の供給、特に石炭や鉄鋼は、相対的に希少で高価」であり、「インド人には、この段階で、技術革新に投資を行なう、経済的に合理的な誘因はほとんどな」く、1816年にインドは「綿織物の純輸出国から純輸入国に転落」した事、A中国では、「労働の入手可能性は高く、その供給価格は低く」、19世紀まで陶磁器・絹織物・茶において「世界市場における支配的地位」を保っていたが、「労働力を節約し、代替エネルギーを使用するような生産や輸送への誘引はほとんどなかった」事、B西欧イギリスでは、インド植民地支配で「多くの原綿」が英国に輸入され、木炭価格の騰貴と石炭価格の下落で、「18世紀の最後の3分の1のコンドラチエフの『B』局面」で「織物製造と蒸気機関における技術革新・技術改良」をもたらし、19世紀はじめの「A」局面とナポレオン戦争によって「輸送装置を含む、これらの新技術の拡大への投資」が増大し、「自由貿易」を通じて世界の工場になり、「イギリスの植民地主義は、インドへの自由交易を禁止しなければならず、中国を無理やり『門戸開放』させるために、そこからアヘンを輸出するという挙にも訴えた」事、Cアフリカは「資本輸出に悩み」、ラテン・アメリカも「植民地的・新植民地的な資本の流出に苦しみ」、中国・日本を除いて、「アジアの市場はますますヨーロッパとその産業の支配下におかれ」た事などを指摘した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』)。

 こうして、フランクは、「多数の、相互に連関した投資」が、「生産性、労働の使用量、総産出量」を増大させた「産出一単位あたりの労働投入量を節約するような機械や工程」、「生産的な動力発生」、「生産的な雇用と資本の生産性」など、「経済的に合理的で利益になるようになった」のであるとした。当初は、「このような生産過程の転換」は、「世界経済のさまざまな地域における、選ばれた特定の産業、農業、サーヴィスの部門に集中」した。「1800年前後の、ヨーロッパとの比較における世界経済での競争で、アジアにとって足枷となった」ものは、「貧困」「伝統」ではなく、「アメリカの貨幣の流入が資金となって長期にわたって18世紀の多くの部分にまで続いた「A」局面的拡大の経済的誘因への対応に、絶対的・相対的に成功したこと」であったとする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』524頁)。

 こうして、「1400年以来の共通のグローバル経済の拡張は、周縁的であったヨーロッパやアフリカ、両アメリカよりも、アジアの中心に、より早くから、より多くの利益をもたらしていた」が、「まさにこの経済的利益が、18世紀のおわりになると、ひとつまたひとつと、アジアの各地域にとって絶対的・相対的な不利益を増大させるようになった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』525頁)とする。

 19世紀のヨーロッパ人は、「この歴史を、新しいヨーロッパ中心的なパースペクティヴから、文字通り書き換えた」のであり(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』220頁)、それこそが産業革命であった。しかし、「ヨーロッパ産業主義および植民地主義が始まったあとの19世紀」には、「アジアに対するヨーロッパ人の高い評価」が変わった。19世紀半ばまでには、「ヨーロッパ人のアジアおよび特に中国観は、根本的に変わってしまった」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』63−6頁)のである。 1400−1800年「世界経済は、依然として、全く圧倒的にアジアの影響下にあ」り、「中国の明朝・清朝、オスマン・トルコ帝国、インドのムガール帝国、サファヴィ朝ペルシア帝国は、経済的および政治的に、非常に強力であ」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』295頁)ったが、国内経済発展による混乱・動揺、欧米産業産業革命によるその加速化で、19世紀末頃から弱体化した。

 プロト工業化論の狭小さ 「プロト工業化」とは、1972年にF.メンデルスがヨーロッパ・フランドル地方の実証研究に基づいた仮説であり、産業革命の前に農村手工業の拡大が経済発展の原動力になったというのである。この程度の指摘は、幕末維新期の日本でも少なからず指摘されている。しかし、フランドルからは、産業革命は最初に生じなかったのであり、経済的要因のみでは産業革命は生起しなかったのである。産業革命が起こるということと、産業革命成果を受け入れて発展することとは別問題なのである。「生産と交換との何らかの飛躍」である産業革命は、「厳密な意味では単なる経済的過程ではないし、そうではありえない」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、213頁)ということだ。

 また、一国で産業革命が先行すると、隣国にとっては経済的従属化の危機が始まり、それへの政治的対応が始まるのである。産業革命の先行国が自由貿易を主張すれば、隣国は保護貿易で対抗しつつ産業革命を模倣し始めるのである。後発国にとっては、産業革命はなおさら「経済的過程」ではないのである。

 そもそも、「1800年以降の西洋の勃興は、ヨーロッパが、ルネッサンス以来『連続』して、準備していた結果というわけではな」く、「産業化も、ヨーロッパの『プロト工業化』が、連続的に成長して脱皮したものでさえない」のであり、「プロト工業化がヨーロッパよりもさらに発展していたアジア、特に中国では、同じ過程が、同じ結果を生まなかった」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』564−5頁)。故に、ポメランツ(Pomeranz,Kenneth.1997."A New World of Growth:Markets,Ecology,Coercion,and Indusrialization in Global Perspective" Unpublished Manuscript)やウォンは、「産業革命は、それとは違う要因を導入して説明されなければならない。新しい別個の出発点である」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』565頁)とするのである。

 産業革命とは、「予測できない事件であ」り、「それは、ひとつの全体としての世界経済において、その不平等な構造と不均等な過程の連続の結果として、ヨーロッパの一部において、起こったもの」なのである。あくまで、産業革命は「世界経済の発展の過程によって産み出された、屈折にすぎない」のであり、「アジア・ヨーロッパ間における、人口成長率と経済的な生産性の成長率、およびおそらく諸資源にかかる圧力の『交替』」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』565−6頁)なのである。

 産業革命とは、「さまざまの運動が合流し、集合をなし、家系をなした『ひと続き』のもの」であり、故に「イギリスの成功に先立った幾多の前革命や運動を点検してゆくが、それらが意味を帯びるのは、革命の必要条件の充実との関わりにおいてである」のである。「生産と交換との何らかの飛躍」である産業革命は、「厳密な意味では単なる経済的過程ではないし、そうではありえない」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、212−3頁)のである。

 この点を弁えずに、創造力もなく、プロト工業化論を請け売りするのは学問的とは言えないのである。

                               A 長期的視野ー文明と食料革命 

 最初の革命たる食料革命は、筆者の最新研究が明らかにしているように、アジアの土壌・気候の恩恵を受けて麦と米という食料の栽培を基軸としており、そのことによって、富と権力のシステムを波及させていったのである。アジア各地に数百万人から数千万人の大人口を擁する「富と権力」システムを基軸とする文明を誕生させた。

 それは、西アジア文明(メソポタミア文明、エジプト文明)、南アジア文明(インド文明[インダス文明、ガンジス文明])、東アジア文明(中国文明[長江文明、黄河文明]、日本文明)という広大なアジア地域に展開した文明であり、ヨーロッパ文明の母胎となった西アジア文明は僅か二つであり、以後のギリシァ文明・ローマ文明を含めても、いずれも衰滅文明であるのに対して、アジア文明の母胎となった文明は五つもあり、うち四つは持続文明だったのである。人類の文明は明らかにアジア中心で始まり、アジア文明だったのであり、以後も南アジア、東アジは世界の中心であったということである。「1800年以前のグローバル経済」において「『中心』的な地位と役割を持つのはアジア」(アンドレ・グンダー・フランク、山下範久訳『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』藤原書店、2000年、「日本語版への序文」、1−2頁)なのである。従って、アジア中心の古代文明、つまりアジア文明は、四大文明などと言う狭小で非学問的な通俗用語では到底とらえきれない世界史的スーケルの文明であったということである。

 そして、近代においては、ヨーロッパでは、ヨーロッパの植民地推進を肯定するために、エジプト・メソポタミア文明ではなく、ギリシア文明が援用されだした。サミール・アミン『黒いアテネ』(1989年)は、「ヨーロッパ自らの純粋なルーツが、『民主的』でありながらかつ奴隷を所有し、また性差別主義的でもあったギリシアにある」という「史的神話」が「19世紀のヨーロッパ植民地主義の必須部分」として創造されたと主張した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』57頁)。これに対して、フランクは、「ヨーロッパの『ルーツ』はもちろん、決してギリシアやローマに限られるわけでも」、「その前のエジプトやメソポタミアに限られるわけでもな」く、「ヨーロッパのルーツは、記憶を越える過去からアフロ・ユーラシア(Afro-Eurasiaアフリカと ユーラシアからなる大陸)全てに広がっている」。むしろ、19世紀に「ヨーロッパ中心的な発想」(政治経済学[マルクス、ゾンバルト]や社会学[デュルケーム、ジンメル、ウェーバー]に源流がある)が発明されるまで、ヨーロッパは「依然アジアに従属」していたと持論を展開した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』58頁)。

                                    B 短期的視野ー島国・植民地

 島国・植民地と衣料革命 フランク仮説やプロト工業化論は、短期的な純経済的要因で産業革命を説明しようとしたものであり、英国産業革命によって登場した資本主義が、なぜ侵略的・略奪的になったのかは不明である。この点を解明するには、食料革命を起点とする人類の生産性革命という長期的視点や、島国・植民地などの非経済的要因を含めて考える必要がある。狭い視野で純経済的考察を加えても、学問的には不十分だということである。

 この点に関して、ハートウェルは、産業革命原因について、@「第一動因があったのか、あるいは、どのような動因の複合が」あったのか、A「農業革命か。人口成長か。技術の改良か。交易の増大か。資本蓄積か。これら全てに、それぞれの支持者がいる」、B説明は「宗教、社会構造、科学、哲学、法の変化」など「非経済的諸力に求められなければならないのか」、C「最も困難な問題は、このような刺激(たとえば、国際交易を通しての需要の増加)が、どの程度外生的であるか(すなわち、経済から独立しているか)・・そして、どの程度内生的であるか(すなわち、経済の内部から産み出されてきたか)を決定することである」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』475頁[Hartwell,R.M.1971.The Industrial Revolution and Economic Growth.London:Methuen.])と、幅広くとらえようとする。

 この機械制大工場による衣料革命は、周知の通りヨーロッパの英国に最初におこったのだが、その英国が貧しい島国だったいうこと、ゆえに植民地が不可欠だったという事が想起される。イギリスも持久力があったという意見もある。例えば、あるフランス人が、@イギリスがイタリアと敵つ状態となって絹が入ってこなくなると、東インド会社は「インドに桑の木を植えさせ」て絹を確保し、Aイギリスがスペインと敵対状態となって藍が入ってこなくなると、東インド会社はインドに藍を栽培させて確保し、B「イギリスがロシアと敵対状態に入って、自国海軍に必要な麻を同地から取り寄せられなくなると、会社は自国の需要を満たすだけの麻をインドに播種させ」、C「イギリスがアメリカ大陸と敵対状態に陥りそうになって、もう同地の木綿を受け取ることができなくなる」と、「会社は本国の紡ぎ手ャ織子に必要なだけのものを供給する』のであると証言した。このフランス人は、これでもって、「イギリスがその富を得たのは対外通商のおかげだなどという俗論を排除する」事をイギリスに勧め、「イギリスは自給自足して生きていくこともできたはずだ」とイギリスに「受けあった」のであった(フェルナン・ブローデル、村上光彦訳訳『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、269−270頁)。しかし、このフランス人証言を聞いて、島国イギリスが植民地利益を得ていないとか、自給自足できる国だと思う人がいるであろうか。このフランス人証言は、イギリスが却ってインド「植民地」なくしては存立できないことを明示したのである。

 これを踏まえて考えるならば、イギリスの機械制大工場の衣料革命(衣料生産部門における生産性の革命的増大)とは、食料革命を起点とする人類の生産性革命という長期的趨勢の中で、島国特有の諸事情(木材希少化で「石炭利用が高ま」り「レール上を走る貨車」が登場し国内交通網整備を促した事、イギリス河川は急流で水車利用には「長い導水路で迂回させる」などコストがかかり蒸気利用を促した事、国内市場の早期形成・金融機構の早期整備・政治的な安定などを促した事、植民地市場を必要たらしめた事、など)が凝縮的に影響していた総合的産物なのではないか。英国が、巨大資金を機械制大工場に投資する決断を促した最終的諸事情とは、島国と特有の諸事情が作用していたはずである。

 だとすれば、すでに高度な内的経済発展を遂げていた東洋の島国日本もまた、衣料革命を起こす諸条件に「凝縮的」に恵まれていたのではないかと思われる。だからこそ、日本は必要機材を輸入して、欧米産業革命に追いつけたのである。そして、日本の問題はそこから始まった。日本はアジアに先駆けて産業革命を遂行したのだが、その過程で日本はアジアの一国としてアジア諸国の産業革命を時間をかけて指導するべきであった。アジアと一体となって、欧米列強と対峙するべきであった。しかし、日本が、「その経済力・技術力・競争力を示すと、(欧米の)多くの論者は日本を『西洋』の一部だとみなすようにな」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』5頁)り、日本にその選択をさせるいとまなく、日本を欧米側に取り込んでいったのである。日本は欧米の「おだて」「引き立て」に乗ってしまい、「極東の憲兵」になりさがり、日清戦争まで起こしてしまった。日本が真に反省すべきはこのことであり、同時にアジア諸国もまた連帯して欧米帝国主義に対応しようという姿勢が弱かったことを自省すべきであろう。その上で、アジアは、未来の共同体を目ざして連帯しなければならない。

 植民地からの高利益 島国英国が植民地を不可避のものたらしめていたものこそ、英国が植民地からあげる利益であった。このことを確認しておこう。

 アダム・スミスは、「わが西インドの植民地においては、砂糖プランテーションのあげる利潤は、一般に、ヨーロッパやアメリカで知られている他のいかなる耕作による利潤よりも、はるかに大きい。また、タバコプランテーションの利潤は、砂糖プランテーションの利潤よりは劣るとはいえ、穀作(小麦)の利潤よりも勝っている」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』491頁[Smith,Adam.1776.The Wealth of Nations.)と指摘していた。

 ハートウェルは、英国は奴隷交易と「1760年代からのインドの組織的略奪」で英国に「目覚ましいほど大量の(資本)流入」があったとする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』491頁[Hartwell,R.M.1971.The Industrial Revolution and Economic Growth.London:Methuen)。

 ホセ・アルダは、「商業的投資は、植民地でなされたのであり、重商主義的な資本回路に統合され、重商主義的な政策と結びついて、実質的・戦略的に西欧の経済成長に寄与した。それによって、新しい投資の領域(資本の成長、流動性、回転にとって本質的な領域)が開かれたのである。・・植民地はもうかったのである」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』491頁[Arruda,Jose Jobson de Andrade.1991."Colonies as Mercantile Investments"In The Political Economy of Merchant Empire,edited by James D.Tracy,360-420.Cambridge:Cambridge University Press])と、断言する。

 フランクも、植民地は、「ただで貨幣を供給したばかりでなく、奴隷労働や、安価な砂糖、タバコ、材木、綿花、その他、アメリカ産のヨーロッパで消費される財をも供給」し、さらに植民地アメリカ貨幣のおかげで「絹・綿の織物」、「アジアから彼らが買うことのできた香料」、「アジア域内『カントリー・トレード』への参入によってさらに得られた貨幣」にアクセスできたと評価した(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』492頁)。

 エルネスト・マンデルは、1500−1800年に「ヨーロッパが植民地から分捕った戦利品」は金10億ポンド・スターリング、1750−1800年のインドだけからでも、1−1.5億ポンドに達すると算定している(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』492頁)。インド歴史家アマレンドゥ・グハ書評(Analendou Guha,The First Industrial Nation by P.Mathlas,in:The Indian Economic and Social History Review,vol 7,september 1970,pp.428-430)は、「イギリスがインドから引き出した剰余」と「イギリスの預金のなかで投資に向けられた剰余」を比較して、イギリス投資は1750年600万ポンド(GNPの5%)、1820年1900万ポンド(GNPの7%)であることを踏まえると、1750−1800年に「インドから年々引き出された200万ポンド」は小さいものではなく、ブローデルは、「「この島国の冨の水準を高めた」とするのである(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、262−3頁)。フランクは、「このような資本の流入は、新しい産業革命、特に蒸気機関と織物技術への、イギリスの投資の財源にならなかったとしても」、利子率を下げて(1750年代に3%に下落)、「それを円滑にはした」とする(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』492頁)。

 植民地と英国衣料革命 現実には、アメリカ・アジアの植民地支配・収奪で「先行」していた英国が、日本より先に産業革命遂行の切実な課題に直面して、それをいち早く遂行し、著しく資本主義に軍事的色彩を濃厚ならしめたのであった。世界最初のイギリス産業革命を可能にした決定的要因とは、イギリスにあって日本にはない植民地市場だったとも思われる。

 そもそも、ヨーロッパでは、古代から植民地領有は頻繁に行われてきていた。中世においても、ヨーロッパは域内に植民地を持つことはあたりまえであり、この点にについて、ブローデルは、「ある種の国家は三つの地帯、すなわち首都・地方・植民地の三地帯に分割され」「十五世紀のヴェネツィアに当てはまる」とする。フィレンツェにも、「都市・Contado(中世都市の支配下にあった郡部・都市周辺領土)・lo Stato(「植民地に類する地域)」の三地帯があったのである(フェルナン・ブローデル、村上光彦訳訳『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT 世界時間1、みすず書房、1996年、46頁)。そういうヨーロッパ諸国が、アメリカ大陸、アフリカ大陸、アジア大陸に植民地をもとうとしても、良心の呵責も道徳的抵抗などはなかったのであろう。

 実際、15世紀のヴェネツィア、17世紀のオランダ、「18世紀の、それにもまして19世紀」のイギリス、「今日の米国」には、「強力な政府」があり、「それらの政府は、内外に威令を敷き、都市の下層民の規律を正し、必要とあれば租税負担を重くし、信用を、また商業の自由を保証する能力があ」り、「これらの政府は、暴力に訴えることもなんらためらわ」ず、「まさにこれらの政府になら、時期的に非常に早いが、時代錯誤を恐れることなく植民地主義とか帝国主義とかいう単語を用いてもいい」(フェルナン・ブローデル、村上光彦訳訳『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT 世界時間1、みすず書房、1996年、53頁)のである。しかも、ヴェルナー・ゾンバルトによれば、「戦争は技術によって更新されたし、またそれは近代を創造しつつ資本主義体制の定着を早めるのに一役買いもした」と評価する。ブローデルは、「この見方は誤っていなかった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、61−2頁)とする。フランクは、「近代資本主義が近代国家に宿るにあたって、しばしば戦争がその道具として役立った」と評価する(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、61頁)。概して、ヨーロッパでは、戦争を不可欠な手段とし、戦争を「肯定的」に捉えるのである。アメリカ・アジアが相手にしたヨーロッパとは、まさに危険な侵略戦争集団だったのである。

 そのイギリスの『近代的』国家としての制度の多くは、「イギリス国内ではなくインドとの関わりを通じてつくられ」、「そのためにこの東インド会社は最も重要な役割を果たした」(バーバラ・D・メカトーフ、トーマス・R・メカトーフ、河野肇訳『インドの歴史』創土社、2006年、69頁)のであった。イギリス東インド会社は、当初は「莫大な利益をあげることができる東南アジア一帯の香辛料貿易に参入した」が、「組織力・資本力にまさるオランダ東インド会社(VOC)というライバルと衝突すると、ただちに方向転換してインド貿易にきりかえた」(バーバラ・D・メカトーフ、トーマス・R・メカトーフ『インドの歴史』69頁)のであった。イギリス東インド会社は、「収益率は高いが市場が限られている香辛料」に代わって、「高級手織り繊維製品」、「インディゴや硝石」などを扱って「17世紀中に安定して利益の上がる体制」を構築した(バーバラ・D・メカトーフ、トーマス・R・メカトーフ『インドの歴史』70頁)。「1660年後に消費財市場が成長したイギリスでは、チンツ(捺染織布)、キャリコ、モスリンのようなインド産繊維製品に対する需要が急速に高ま」り、イギリス東インド会社による輸入額は、36万ポンド(1670年)、200万ポンド(1740年)と著増した(バーバラ・D・メカトーフ、トーマス・R・メカトーフ『インドの歴史』70頁)。1778年、彼らは、東洋が「ブリタニアに富を捧げる」(バーバラ・D・メカトーフ、トーマス・R・メカトーフ『インドの歴史』71頁)と、思い込み始めた。イギリス産業革命は、こうした植民地の支配・収奪とも深くかかわっていたのである。

 「インド織物業地域では、労働力は潤沢であり、賃金は低かった」ので、「インド商人にとっては、生産の機械化への誘引は、ほとんどなかった」が、イギリスでは、「安価さと質の両面でインドの布に追いつくために」新機械が発明され、さらに「インド、イラン、およびトルコで、何世紀にもわたって用いられてきた(染色の)諸工程は、多くの新しい応用を付け加えられて」イギリスに急速に広がっていった(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』349頁[Pacey,Arnord.1990.Technology in World Civilization.Oxford:Basil Blackwell])。「イギリスは、国内の綿織物産業に対する保護主義とその他の刺激策によって国内市場における輸入代替を行なうことによって、自国の産業化を開始」し、「次いで・・世界市場への輸出促進」に着手したのである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』349頁)。

 この結果、英国産業は、18世紀、輸出製品は450%増加したが、国内用生産は52%増加にとどまり、「英国の生産における国外市場の役割がかなりよくわか」り、1800−1820年には、「英本国の輸出は83%の増加を見」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、262頁)るに至った。

 イギリス綿業の破壊性 1703年イギリス・ポルトガル間のメスエン条約で、イギリスはポルトガル綿業破壊・制覇を企図していた。1702年12月英国政治家J・メスエンは、「この合意は、ポルトガルにおいて、今、莫大な量の低級・高級衣料を生産している、その全ての製造業者をただちに屈服させ、完全に根絶やしにするという結果を持つであろう。衣料にせよ、反物にせよ、他のいかなる国のものも、(ポルトガルの市場では)イギリス製のものと競争できるようにはならないであろう」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』484頁[Sideri,Sandra.1970.Trade and Power.Informal Colonialism in Anglo-Portuguese Relations.Rotterdom:Rotterdom University Press.pp.57-9])と指摘した。

 ブローデルも、インドの織物輸出が「ヨーロッパの産業へ刺激を与え」、「イングランドの最初の一歩は、18世紀の大半にわたって、インドの織物に対して、その国境を閉ざすということであり、インドの織物はヨーロッパおよびアメリカへ再輸出され」、次いで「根本的に人力を削減することによってはじめてなし得る」所の、「利益のあがる市場の獲得」を目指し、やがて「機械革命が綿織物業で始まった」のである(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』484−5頁[Braudel,Fernand.1992.The Perspective of the World.Vol.3 of Civilization and Capitalism 15th-18th Century.London:Fontana<村上光彦訳『世界時間』みすず書房、1996−1999年>])。


                            六 日本開国の歴史的意義ー戦争「世界」への強制編入 

 周知の通り、「鎖国」下で順調に発展していた日本は、先に「産業革命」を遂行していたアメリカ(アジア進出に後れを取っていたアメリカは、日本開国で英仏ら欧州列強に伍してゆこうとしたのである)の軍事力によって強制的に開国・開港を余儀なくされ(これは、当時のアメリカの新聞が的確に指摘したように、アメリカの日本に対する事実上の宣戦布告の側面もっていた)、これ以後、日本は「平和の時代」から「戦争の時代」に突入せしめられたのである。もしこの時に日本が「鎖国」という欧米列強の侵略危機の防遏体制を堅持していたならば、日清戦争・日露戦争開戦、第一次世界大戦参戦・第二次世界大戦参戦はなかったであろう。

 これは全くありえないことではなかった。例えば、部分的な防遏的「鎖国」は既に英国も行なっていた。この点、ブローデルは、インドの織物輸出が「ヨーロッパの産業へ刺激を与え」、「イングランドの最初の一歩は、18世紀の大半にわたって、インドの織物に対して、その国境を閉ざすということであり、インドの織物はヨーロッパおよびアメリカへ再輸出され」、次いで「根本的に人力を削減することによってはじめてなし得る」所の、「利益のあがる市場の獲得」を目指し、やがて「機械革命が綿織物業で始まった」のであるとしている(484−5頁[Braudel,Fernand.1992.The Perspective of the World.Vol.3 of Civilization and Capitalism 15th-18th Century.London:Fontana&lt;村上光彦訳『世界時間』みすず書房、1996−1999年&gt;])。英国は、精巧なインド織物に対抗できぬとしてそれを国内市場から遮断しようとしたのである。

 さらに言うならば、当時大局的視野に立って細部ももらさず俯瞰する「総合的・根源的」学問が構築されていれば、アジア諸国が早期に連帯して、貧しい欧州の豊かなアジア侵略を防止できていたであろう。欧米の個別分断的侵略を防止するには、アジアは連帯するしかなかったのである。しかし、酷な言い方かもしれないが、低水準学者どもの「小局的」安住のもとでの怠慢で、こういう本物の学問がいまだ構築されていなかったのである。しっかりと本物の学問が構築されていれば、無用な戦争など起こらなかったのである。学問の責任とは、極めて大きいものなのである。

 筆者の説く大局的視野に立って細部ももらさず俯瞰する「総合的・根源的」学問の観点から、2015年7月に全国民が大きな関心を示している安保法案を見るなれば、その最大の問題は、@仮想敵国を中国としていること、A同盟国がアメリカである事、B危険事態とか戦時状勢判断基準が非常に曖昧で適性判断が困難であることなどである。

 @を捕捉すれば、2015年夏、作られた中国・北朝鮮の「脅威」のもとに、今まさに米国「圧力」のもとに安保法案が通過しつつあるということである。固より中国にも問題はあり、国境問題で頑なになったり、「高圧的になったり、太平洋の安全を担う等の驕りは是正しなければならない。中国はアジアの大国としての徳義と責任を発揮して、当面の中国軍事力はあくまで過渡的に外敵からのアジア防衛のための軍事力であることを明示して、あくまでアジアと共に歩む姿勢を明確にして、国境問題をアジア友好の場に転換するくらいの度量をも持たねばならない。

 Aを捕捉すれば、アメリカは非常に好戦的であり、第二次大戦後の主要戦争(ベトナム戦争、アフガン戦争、湾岸戦争など)の主導者であり、これと同盟を維持する限り、日本はアメリカ主導戦争に巻き込まれる可能性が高く、国民が戦争法案としてこれを批判していることはあながち的外れではないのである。元外務官僚が「アメリカは世界最強だ」として、同盟の根拠を主張していたが、その世界最強軍がべトナムに敗北し、各地で紛争を鎮圧できていないという脆弱さをもっているということだ。「アメリカは世界最強だ」等という事は、何ら信頼するに足らない。Bについて捕捉すれば、筆者が数十年の出兵・開戦・作戦研究などを通して得て事の一つは、戦争に関わる諸判断ほどあてにならぬものはないということだ。このあやふやな戦争判断に基づく法案が危険だと批判する国民の声もまた正鵠を得ているのである。

 こうした「戦後日本と世界戦争との関連」について、憲法第九条の戦力放棄条項が日本を世界戦争から遮断していたなどと即断してはならない。国体護持を深刻に図っていた天皇が米軍意向を汲んで米軍駐留を要請し、講和条約締結後も日米安保条約で米軍が駐留し続けたために、日本青年の代わりに米軍青年が日本駐留基地から出兵して血を流していたのであり、日本は間接的に世界戦争に関わっていたのである。米国青年の戦死傷に思いをはせずに、日本だけは血を流さずに世界戦争から無縁だったなどと考えてはいけない。今回の安保法案によって、日本は世界戦争への間接関与から直接関与に転換するということである。今まさに、日本は、アメリカの「圧力」のもとに、開国に続き、「第二の戦争世界突入」を余儀なくされつつあるのである。こういう学問的判断に依拠すれば、国民の安保法案批判は、低水準の御用学者とは打って変わって、ごく普通の日本国民の健全な学問水準の高さを示したものだといえよう。


                                       世界システム革命 

 では、そうした「産業革命」に由来する現代の危機をどのように対応すればよいのであろうか。

 食料革命と衣料革命 人類最初の食料革命と、次の衣料革命との間に必然的関連はあるのだろうか。最も豊かな食料革命を経験したアジアがその「自然的帰結」として衣料革命を展開する前に、辺境地域のヨーロッパが先に衣料革命を遂行したのはなぜか。

 考えてみれば、今までの主要技術において生業と無関係なものなど一つとてなかった。そうした中で衣食住こそが人類の生活に関わる基本的な要件であり、生業の根幹であったが、住のみは、複雑な工程があり、耐久性が長く、各時代の総生産の状況に従属的であり、「生業革命」の主軸とはなりにくかった。その結果、日本の「製造工業の業種別構成比」は、1875年、繊維22.3%、食料品40.2%、鉄鋼(非鉄金属も含む[以下、省略])・機械5.3%、化学19%、1890年繊維36.1%、食料品35.2%、鉄鋼・機械5.3%、化学13.5%、1915年繊維32.9%、食料品27.1%、鉄鋼・機械17.6%、化学11.7%、1935年繊維29.1%、食料品16.4%、鉄鋼・機械29.1%、化学14.4%と、食料・衣料の製造額は大きかったのである(安藤良雄編『近代日本経済史要覧』東大出版会、1975年、11頁)。

 食料革命は、農業的富と人口の増加を基軸として「富と権力」システムを創出し、総生産の5割以上を食料が占める時代においてはそのシステムの基盤を固めたものであったとすれば、衣料革命は、そうした「富と権力」システムを加速度的に強固たらしめ、国家間対立を激化させるものとなった。食料革命によって「富と権力」システムが世界共通に普及して行き、その「富と権力」システムの総合的産物として利益急増による「富と権力」システム強化のために衣料(繊維)革命がおきるのである。概して、衣料産業の製造工程は、原料の加工(天然繊維の下処理、紡績など)、布地の製造と仕上げ(製織、編み、染色、織物の仕上げなど)、それに加えて完成品化(衣服、家庭用布製品など)の各工程が含まれ、産業としての影響力は非常に大きかった(中小企業基盤整備機構「繊維・ファッション産業欧州事情調査」報告書、2007年2月28日)。機械化開始前の「(英国)一人あたりの木綿消費量」300g(「一人あたり、年間に1枚のシャツを生産できる」)の水準が機械化起点の指標であり、実際、「1804−7年にフランスでまさにこの水準に到達したとき、同国での木綿産業の機械化が始ま」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、245頁)り、不可逆的となって、諸工程の機械化或は合理化を誘発していったのである。なお、イギリスの木綿年間消費量は170万ポンド(1737−40年)、210万ポンド(1741−9年)、280万ポンド(1751−60年)、300万ポンド(1761−70年)と増加傾向を示したが(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、244−5頁)、これに植民地・後進国向け輸出量が加わって、この巨大需要が綿業機械化を促していたのである。

 近代の生産・市場規模において、この衣料(繊維)産業はまぎれもなく主軸なのであり、他の製造業もこれに影響を受け、触発されながら展開していくことになった。衣料(繊維)産業は、このように内部諸連関が大きく活発であるのみならず、後述のように外部(製鉄、交通、石炭など)との連関も小さくないのであり、第二の人類革命は衣料を置いて他にはなかったといってよいのである。この点に関しては、外部産業に与えた木綿革命の意義を過小評価する動きとして、@1800年木綿原料は5000万ポンドだが(2.3万トン)、石炭は数百万トンに及ぶこと、A「木綿産業の技術革新」は「16世紀以前から、古い織物業(羊毛・木綿・絹・亜麻)に独特の、長く続いた一連の変化が始動」したもので、「木綿産業は旧制度に所属する」ものであり、「旧産業の進化の最後の一章」に過ぎぬ事、Bケイ飛杼は「「幼児の機械玩具」と評価すること(エルネスト・ラブルース)、C「蒸気機関が発明されたのは木綿産業のためではなかった」ことなどがある(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、250頁)。しかし、木綿革命の画期性は、成功した革命であり、「それが端緒となって長い成長が始まり、その成長はしまいには継続的成長とな」り、これ以上に重要な産業はなかったということである(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、251頁)。

 古代エジプト革命の限界 確かに、こうした一連の器械化ならば、既に古代に行われたこともあった。例えば、紀元前100年―50年、プトレマイオス朝のエジプトで、「吸引してそして圧搾するポンプ」(押し上げポンプ)、「温度計や経緯儀に先立つ器具」、「実用的というよりは理論的だった兵器」(「空気を圧縮しては膨張させる作用とか、巨大なバネの力とかを利用した兵器」)等が製作された後、「蒸気が出現」し、「一種の蒸気タービン」の玩具だが、「遠くから神殿の重い扉を開閉する力のある機械仕掛けを働かせた」。そこでは、「文化革命、商業革命、科学革命」など「さまざまの革命が光を放ってい」て、「発明というものは集団をなし、房をなし、シリーズをなして進むものであり、それらはあたかも支えあっているかのようであり、あるいはむしろ所与の社会がそれらの発明全体を前方へ押しだしていったかのようであ」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、213−4頁)った。

 しかし、奴隷制度で「必要な、便利に活用できる労働力をなに不足なく入手した」ので、このアレキサンドリアの諸発明は、「閉じられて」いたし、あくまで器械生産にとどまり、綿業という主導的機械生産部門もなく、国民的市場・国内交通網・国内金融網なども整備されず、不可逆的な機械的「工業生産上のなんらかの革命というかたちをとらないままに終わってしまった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、214頁)のである。

 「テイク・オフ(離陸。産業革命)が1787年以後に生じたのは、たしかに木綿の所業であ」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、252頁)り、ホブズボームは「ほかのもろもろの産業も、木綿と同時に上昇し、木綿が崩壊するとそれにつれて下落した。その調子で二十世紀まで続いたのである」(E.Hobsbaum,L'Ere des revolutions,1969,p.55[ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、252頁])と指摘する。木綿革命に次いで、「鉄の革命」が来たが、「鉄道、蒸気船、さまざまの設備財」の「鉄の革命」は、「利潤が薄いのに莫大な投資を必要」とした。こうしたイギリスの「余裕」は、「国内に大量に蓄積されていた金銭」つまり「木綿による利潤」であった(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、254頁)。故に、当時にあって生産性と市場性の飛躍的増加が見込まれ、諸産業に与える革命的影響力とをもつ主軸産業としては、衣料産業以外にはなく、ここに人類第二の生業革命が衣料部門で起きることになったのである。

 「第一次ヨーロッパ産業革命」の限界 E.M.ケーラス=ウィルソン(An Industrial Revolution of the thirteenth Century,Economic History Review,1941)は、「縮絨機(12世紀から13世紀にかけて約150台)、製材所・製紙所・製粉所等がイギリスに幅広く設置された状況」を第一次産業革命と呼んだ。ケーラス=ウィルソンは、「縮絨の機械化(「水車で動かす大型の木製叩き棒」で、水車革命)は、18世紀における糸紡ぎあるいは織物の機械化と同様に決定的な出来事であった」とする。この水車革命は「イギリスでもヨーロッパ大陸全土のいたるところで」展開した(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、215頁)。

この水車革命は、三圃式輪作の農業革命、「重騎兵隊」の躍進(軍事革命)、人口増加におしあげられた都市革命(都市と農村の分業)などの諸革命が随伴した(217頁)。「農業・産業・商業の生産性の面でも、また市場の拡大の面でも、たがいに関連した一連の進歩が生産を活気づかせた」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、217頁)のであった。また、この発展によって、第三次産業部門(弁護士、契約書・帳簿作成の公証人、医師、大学教員)も増加し、「大躍進」した。

 しかし、「人口増大が大規模で、農業生産がそのリズムについていけ」ず、「土壌の急速な消耗を予防できる方法および技術が欠如」していて封建危機が生じたり、新興領域国家たるイギリス・フランスの経済的柔軟さが欠けていたりしていたために、14−5世紀の「猛烈な景気後退」でこの第一次産業革命は崩壊したといわれる(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、218頁)。

 元来、毛織物工業の機械化は困難であり、工程の機械化の波及力は脆弱であった。

 食料革命と衣料革命の相違 こうして、食料革命と衣料革命とは人類の基軸的生業、つまり「生きる」うえでの基軸的行為の線上に位置づけられつつも、後者は「富と権力」の世界システムの様々な支流、本流入り混じりながらも、大小多様な技術が共鳴し合ってより強力な「富と権力」システムに結実する大革命であった。つまり、両者は「富と権力」の線上に位置しつつも、両者には大きな相違があったのである。

 食料革命は、自然・気候・植生などの自然的条件が大きく、まだまだ自然・神への畏敬の念が強かった。特に播種率の高いアジア米生産地では自然・神への畏敬の念が強かったが、播種率の低いヨーロッパ麦生産地では、自然恩恵への感謝というより、苛酷な自然を克服するという側面が強くなった。その結果、ヨーロッパ人の歴史観の基軸は、人間による自然の克服ということになり、薄痩地の民が肥沃地を侵略し植民するのは当然という植民地肯定の帝国主義史観が生まれた。なお、米作の恩恵を受けたインドの古代宰相カウテリア(前350年ー前283年頃)は、「人的行為は、良い政策と悪い政策である。天的行為は、幸運と不運である。実に、天的・人的行為が世界を動かしているのである」(カウテリヤ『実利論』下、上村勝彦訳、岩波文庫、1997年、46頁)とし、人的政策が天的政策に優越するという指摘はなく、両者は「並存」していて、また他国を侵略・植民しようという発想はない。これは中国も同じであり、中国皇帝は、万里の長城を築いて蛮族のの侵略を防御することはあっても、他国を侵略し植民地にするという発想を張り巡らすことなどしないのである。

 所が、この衣料革命では、もはや自然的恩恵というより、食料革命後に展開した工学・技術・市場などの人為的蓄積の相乗作用が優勢となった。つまり、これを発端に生産性増加をめざす人為的作用があらゆる分野で相乗的波及効果を及ぼし出し、それは衣料にとどまらず、農業、重化学、情報工学等あらゆる分野に影響を及び始めたのである。食料革命が自然的諸条件に大きく制約されていたために、次の衣料革命まで数千年かかったのに対して、衣料革命は当初から人「為的側面の蓄積による人為的要因」がが極めて濃厚となったことから、人間の知恵や工夫が大きな作用を及ぼし、工場革命(機械制マヌファクチュアから機械制大工場へという工場革命)が可能となり、以後、人間の知恵や工夫が強調され、その波及効果は迅速にして広汎となったのである。この食料革命と比較した衣料革命の「凝縮性」・「集約性」・「起爆性」は、いかに強調しても強調しすぎることはない。これが現代危機の深因の一つとなっているのである。

 衣料革命の「波及性」 このイギリス産業革命は、ヨーロッパ各国にも波及したのみならず、各種産業の勃興を誘発した。

 前者から見れば、イギリスが「産業革命を実現したのは事実」だが、「イギリスだけがその担い手であり、その発明者だったわけではな」く、「この革命は定着するとすぐ、決定的成功を収めないうちから近隣のヨーロッパになんの苦もなく波及し、そしてその行き先でまずまずの速度で、つぎからつぎと成功」した(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーU、229頁)。

 後者に関しては、我々は、衣料革命以後、重化学工業、IT革命など実に多くの革命が登場したのを知っている。そうした動向を踏まえて、「産業革命」の歴史的意義を見通すならば、@人類誕生から食料革命まで数百万年もかかり、食料革命から「衣料革命」まで数千年間かかったが、A衣料革命以後、第二次「産業革命」(重化学工業中心)、第三次産業革命(IT産業中心)、第四次産業革命(ドイツ主導のIndustrie4.0、米国GE主導のIndustrial
Internet など、第三次産業革命の派生革命)など二百年間未満の間に急速に起こっていたという事実がまずもって考慮されねばならない。衣料革命で始まった「産業革命」は、それ以前の牧歌的な「生産性向上」に比べ物にならないスピードであらゆる分野での生産性向上競争を世界的レヴェルで誘発してきているということである。これが我々をどこに連れてゆくのかわからぬままに、各国、各企業が生き残りをかけて「狂奔」しはじめているのである。まさに、人類は、生産・営業方式を「自然と人智との連動作用」から「機械と人知の連動作用」に転換して、「プロメテウス(産業革命後の人間には制御できない科学技術の暗喩)的成長」(Lal,Deepak[エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』192頁])に踏みだしてしまったのである。この意義を人類最初の革命である食料革命との比較の内にはっきりと再確認しておきたい。

 衣料革命の「非平和性」 さらに、我々が絶えず注意するべきことは、これが「戦争と平和の問題」と「人類の自然的調和問題」(例えば、賛同を得られやすい延命医療偏進による生死バランスの破壊など)とはほとんど無関係に進められ、武器生産性、つまり敵の破壊性・殺戮性をたかめて、戦争をますます悲惨なものとしていることである。

 前者に関して指摘しておけば、どうもヨーロッパ人は、一方で世界大戦の戦禍への反省に立って平和を唱えつつ、他方で経済成長に戦争はつきものとして膨大な軍備を維持しているように思えてならない。欧米諸国は平和をパワー・ポリティックス、パワー・バランスの産物と割り切って、平和と戦争のいずれを真剣に望んでいるのか、どちらがより重要なのか、客観的行動でははっきり示そうとしないのである。その結果、こうした衣料革命以後の諸産業革命が「戦争関係」に援用されるという危険性に絶えずつきまとわれることとなっているのである。

 今まで、文明発生以来、集団・部族・都市・国家間の大小種々の戦争が数十万回以上行われてきて、その都度人類は反省し、戦争を語り、特に家族は肉親戦死を嘆き合って、二度と戦争が起こらないようにと願うことが少なくなかった。特に第二次大戦時には核兵器が使用され、戦争が人類を壊滅される危機が現実なものとなり、深刻な反省がなされた。にもかかわらず、核兵器は廃絶されずに所有は拡大しつつ、未だに世界各地で戦争が起こって、多くの婦女子・市民が被害にあっている。もう言葉や願望だけでは駄目なのである。反省は大事だが、こと戦争に関しては、反省だけはもはや無意味で無用なのであり、何よりも戦争戦力の廃絶を図ることこそが大事なのである。戦争戦力廃絶は途方もなく極めて困難であろうが、それ自体は極めて簡明なものである。軍事を抑止力として肯定するパワーポリテックス的立場ではでなく、生活レベルで平和を希求する民衆が世界的に連帯して決断するだけだからある。もし国家間対立が永遠に解消しえないものならば、民衆が立ち上がって、まずは戦争武器を廃止するしかないということである。

 もはや我々に残された平和実現手段とは、世界一斉に戦争武器を廃絶し、紛争は戦争以外の方法で決着するしかないということだ。戦争のための戦力の放棄である。過渡的には、世界各国の武装兵力を解除し、一部を国連軍とか世界連邦軍などに編成し(歴史的には日本の廃藩置県と維新政権の直属軍事力編成が参考になろう。拙著『維新政権の直属軍隊』開明書院、参照)、残存兵器や残存武装集団に対処しつつ、全世界から戦争のための戦力が放棄されれば、個別的自衛権も集団的自衛権などの議論は一切不要になる。さらに、戦争戦力放棄といえば、我々はそれをうたった日本国憲法九条を持っているから、これを活用することも一法である。その際に重要なことは、その憲法条項の堅持などという狭い一国レベルの問題としてとらえるのではなく、アメリカが日本武装解除徹底のために押しつけた憲法九条の理念をまず当のアメリカを倦まず弛まず説き続け、執拗に巻きこんで、日米両国が強く戦争戦力放棄を標榜し、さらに伝統的に平和愛好であるアジア諸国と連帯して全世界に向かってそれを実施するという見通しの下に、世界的レベルでこれを訴え続けるということである。まずは、文明以来世界の中心であったアジアから戦争戦力放棄を実現することだ。世界の民衆がこれに答えないはずがない。

 そうした武器廃絶後にも国家紛争が途絶えなければ、国際司法裁判所などの国際調停機関を拡充しつつ、「スポーツ競技」(例えばオリンピックや相撲)によって決着するとか、「先端科学」とかの浅知恵・浅哲学ではなく、古代人の牧歌的智慧・哲学に学んだ方がよいのではないか。さらに一歩進めて、こうした問題を学問的に考察するならば、世界史的パースペクティヴに立脚し、「根源的・総合的」学問的立場に立って、平和を真剣に希求する人類の当面の革命とは何かを考えるということになろう。そうする時に、食料革命によって生み出され、衣料革命を起点とする「産業革命」によって加速された「富と権力」システムのかなたにほのみえてくるではないか。それは、あらゆる意味において、「世界システム」革命とならざるをえないであろう。




  
                                    世界学問研究所 学問大博士・大教授  千田  稔


                                                                       2015.5.24
 初校
  
                                                           2015.7. 4  補訂
                                                           2015.7.28  再補訂



 なお、「学問大博士・大教授」とは、ノーベル賞100個分以上ぐらいの世界的大研究の偉業を遂行したことを根拠に世界学問研究所によって授与されるものである。従って、これは、学問的怠慢と学問的無知の横溢する「非学問的」で世界的低水準な日本の大学などとは、全く関係ないものである。そこには、「学問的怠慢の釈明や抗弁の手練れ」ばかりが充満し、「本物の学問の天才」などはほぼ皆無である。日本の大学は「学問の場」などでないことは、明々白々である。

 そもそも筆者が真剣に学問を研究しはじめたのは、日本の大学があまりにも非学問的で水準が低く、目にする大学教授などは余りに非学問的であり、学問的に怠慢であり、世に見られる「大学教授の阿保・馬鹿批判」があながち間違いとは言えず、日本の学問の将来に深刻な危機感を覚えたからに他ならない。もし日本の学界に私のような世界的スケールの学問論を展開する高水準学者がいれば、すぐにでも本物の学問の構築を任せる。




                          


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